「父なる神に植えられた木。」 出エジプト記15章17~18節 櫻井圀郎協力牧師

「汝は、汝を憩わせるため汝が造れり、汝の所有の基たる山の中に彼らを入れ、彼らを植えられり。主ヤハウェ、汝が汝の手により建立せし聖所なり。ヤハウェの統治は永遠なり。」

父の日です。私たちの父である、天の神に感謝します。
本日の御言葉は、父なる神が導き、神が戦い、神が敵を殲滅して、神による出エジプトが達成された時に、モーセ率いるイスラエルの民が、父なる神に向かって歌った感謝の歌の結びです。いわば、父への感謝の賛美です。
   Ⅰ 植木なる人
「神の民」とは、「神が、神の山の中に入れ、植えた者」です。民が木として表現されています。木は、自分で植る場所を選ぶことも、自分で移動することもできません。もっぱら、所有者の意向に応じて植えられ、所有者の所有物になります。
神の山に植えられた木である神の民は神の所有物です。そこには、三つの真理が含まれています。

第一に、神の民は、自分で選んで神の民になったのではないということです。そう言うと、「信仰義認を無視するのか。自分の信仰(自分の意思)で神の民になったのだ」と非難されそうです。
確かに、信仰が基礎であり、信仰なしに救われ、神の民にされることはありませんが、いくら信仰があっても、自分の意思で神の民になることはできません。「ただ恵みのみ」なのです。それこそが、神の愛であり、神が父なるゆえんです。

第二は、神の選びです。神は、手当たり次第に木を集めて、自分の山に入れているのではなく、神による選別、神の選びに基づいています。罪人をご自身のものにする、父権的な愛です。

第三に、神の民は神の所有物です。民主主義の影響でしょうか、国民、社員、教会員が主権者と思い込んでしまいがちです。教会は基督の体であり、基督は神です。初めに、神ありき、基督ありきなのです。
「一度信じて救われた以上滅びることはない」というのは神の民の論理としては正しいのですが、それを盾に、主客転倒して、自分勝手な行動をとる者には通用しない論理でしょう。
神の民とは、神の山の中にある木なのです。であれば、「流れのほとりに植えられた木が、時に応じて実を結び、葉は枯れず、為すところは皆栄える」はずです(詩篇一3)。
Ⅱ 神の安息山
 山は信仰の対象であり、聖なる場所とされています。御言葉では、神ご自身が自らを休ませる処、神の憩う所と書かれています。
 神の憩う処、そこに入れられ、そこに植えられる、それが神の民なのです。民の父としての、神の働きでしょう。ご自身の民を、危険な所に捨て置くのではなく、神が憩われる最も安全な所に安住させられるのです。
 そこは「神の所有の基」です。神の民が植えられた山こそは、神の創造の基であり、神の創造の原点なのです。それを言い換えると、神の民こそが、神の創造の原点であり、世界の基なのです。

   Ⅲ 永遠の統治
 ヤハウェの統治は永遠の統治です。神によって創造された地上の世界とは異なり、時間や空間の概念のない、神の世界なのです。
 御言葉は、「神の所有の基なる山」と言っています。民が木として植えられた山、民によって形成された山こそが、「神ご自身が、御手をもって、建立された聖所」なのです。御父が造成し、御子によって、御子を長子とする兄弟姉妹としての神の民によって形成された山、それこそが神の聖所なのです。

出エジプト記15章17~18節

  • 15:11 【主】よ、神々のうちに、だれかあなたのような方がいるでしょうか。だれがあなたのように、聖であって輝き、たたえられつつ恐れられ、奇しいわざを行う方がいるでしょうか。
  • 15:12 あなたが右の手を伸ばされると、地は彼らを?み込んだ。
  • 15:13 あなたが贖われたこの民を、あなたは恵みをもって導き、御力をもって、あなたの聖なる住まいに伴われた。
  • 15:14 もろもろの民は聞いて震え、ペリシテの住民も、もだえ苦しんだ。
  • 15:15 そのとき、エドムの首長らは、おじ惑い、モアブの有力者たちを震えが襲い、カナンの住民の心はみな溶け去った。
  • 15:16 恐怖と戦慄が彼らに臨み、あなたの偉大な御腕により、彼らは石のように黙った。【主】よ、あなたの民が通り過ぎるまで。あなたが買い取られた民が通り過ぎるまで。
  • 15:17 あなたは彼らを導き、あなたのゆずりの山に植えられる。【主】よ、御住まいのために、あなたがお造りになった場所に。主よ、あなたの御手が堅く建てた聖所に。
  • 15:18 【主】はとこしえまでも統べ治められる。」