「共に重荷を負う人々を選び出す。」 出エジプト記18章17節~26節

政治形態は、専制的独裁的なものが古くから長く続き、人々を支配し搾取し苦しめていました。古代ギリシャや古代ローマでは直接民主主義が繁栄をもたらし、社会を変えました。しかし、市民裁判によりソクラテスが処刑されると弟子のプラトンは民主主義は衆愚政治に陥る危険があるとして哲人政治を提唱しました。民主主義では、言論や信教の自由、法の下で平等な保護を受ける権利、そして政治的・経済的・文化的な生活を組織し、これらに全面的に参加する機会などの基本的人権を擁護することが唱えられます。その民主主義を支えるのが資本主義ですが、どちらも理想を実現することが難しく、争いを起こしています。

 貧富の格差をなくそうとして提唱されたのが共産主義や社会主義ですが、労働意欲を損ない自己責任をなくしてしまって崩壊しました。中国は、共産主義に資本主義的な側面を取り入れて経済的発展を達成しましたが、社会主義的な支配で人権を制限して限界を現わしています。横暴な独裁者の支配が平穏に終わることはなく殆どが突然崩壊しています。

 人間は罪びと、つまり自己中心で自己の繁栄を謀るので、どのような組織体系でも、実は民主的、つまり人々の為に統治することは難しいのです。マックス・ウェーバーは、合議による官僚制はずる賢い官僚が自分達に都合の良い政策を作って合法的に利得を貪るとしていますが、現代社会の政治も会社もそのようになっているようです。ウェーバーはそれで、謙虚な神に仕えるカリスマ的指導者が必要であると言います。

 教会は民主主義ではなく、神主主義です。民が主ということは理想に聞こえますが、利己的な人間同士では、どうしても指導者が自分の利得を求めるようになってしまい、退廃してしまうのです。神が、聖書のような神であるならば、神主主義は理想となります。人の上にその心の内まで見抜かれ裁かれる神がおられ支配するとなれば、自分の利得を求めるわけにはいかないからです。

 士師記は本来そのように神の支配の下で勇士や預言者が支配するものでした。しかし、イスラエルの民は未熟で、「それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」(士師記21・25)ので、他国に侵略されたのでした。そこで民は、「他の全ての国民のように、私たちを裁く王を立ててください。」(Ⅰサムエル8・5)と望みました。神は、王を立てると、あなたがたの息子を徴兵し、あなたがたを使役し、税金を取り、あなたがたは「王の奴隷となる。」(同17)と忠告します。

しかし、民は、「私たちも他の全ての国民のようになり、王が私たちを裁き、私たちの先に立って出陣し、私たちの戦いを戦ってくれるでしょう。」(同20)と求めるので、暴君サウル王が立てられたのです。

 神は、イスラエルの民を最初から神権政治によって統治しようと考えられていたのです。モーセのしゅうとミディアンの祭司イテロは、「主があらゆる神々に優って偉大であることを知りました。」(出エ18・11)と神に犠牲を持って礼拝しました(12)。

 まだ、奴隷から救い出されたばかりの民は、何もわからず、信仰の道も無知であり、「神の掟と教え」(16)も知らなかったので、モーセは自らが教えなければならないと考えていたのでした。しかし、300万人以上の人々をモーセ一人で裁き指導することは無理です。

 モーセが指導者として為すべきことは「掟とおしえをもって彼らに警告し、彼らの歩むべき道と、なすべきわざを知らせ」(20)ることです。他のことは、「神を恐れる、力のある人たち、不正の利を憎む誠実な人たち」(21)に任せるのです。新約では、執事たちの選択基準は「御霊と知恵に満ちた、評判の良い人たち」(使徒6・3)となります。

 教会でも、社会でも、指導者になる基準は、まずは誠実で評判の良い人であることが条件です。検索してみると、「優れたリーダーの条件」として、「知識、熱意、洞察力、責任感、無欲」が経営セミナーで語られていました。ところが、これまでの日本では、独善的なワンマンな指導者が多かったように思われます。それは、実際に指導者になるには、困難が多く、人を配慮していては成功しないようなところがあるのかもしれません。ウェーバーの嫌う官僚制の特徴のようなところがあります。

 さて、教会は、利益志向でも、成長志向でもありません。神の名を借りて支配権を行使するカルトであってもなりません。弱者がおり、高齢者がおり、障害者・病者がおり、そして個性を認めながら、「神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。」(エペソ4・13)

 また、「人の悪だくみや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹きまわされたり、もてあそばれたりすることがな」(同14)いようにしっかりと指導者が立たなければなりません。

 そういう面で、信仰に熱心ではない人々を準会員と位置づけ、成熟を志す人をまとめることになりました。更に、教会は、牧師に次ぐ、献身者、執事、奉仕者、という立場を明確にして働きと責任を確認していきたいと思います。これからの時代に、強く教会が立つために進んでいきましょう。

出エジプト記18章17節~26節

  • 18:17 すると、モーセのしゅうとは言った。「あなたがしていることは良くありません。
  • 18:18 あなたも、あなたとともにいるこの民も、きっと疲れ果ててしまいます。このことは、あなたにとって荷が重すぎるからです。あなたはそれを一人ではできません。
  • 18:19 さあ、私の言うことを聞きなさい。あなたに助言しましょう。どうか神があなたとともにいてくださるように。あなたは神の前で民の代わりとなり、様々な事件をあなたが神のところに持って行くようにしなさい。
  • 18:20 あなたは掟とおしえをもって彼らに警告し、彼らの歩むべき道と、なすべきわざを知らせなさい。
  • 18:21 あなたはまた、民全体の中から、神を恐れる、力のある人たち、不正の利を憎む誠実な人たちを見つけ、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として民の上に立てなさい。
  • 18:22 いつもは彼らが民をさばくのです。大きな事件のときは、すべてあなたのところに持って来させ、小さな事件はみな、彼らにさばかせて、あなたの重荷を軽くしなさい。こうして彼らはあなたとともに重荷を負うのです。
  • 18:23 もし、あなたがこのことを行い、神があなたにそのように命じるなら、あなたも立ち続けることができ、この民もみな、平安のうちに自分のところに帰ることができるでしょう。」
  • 18:24 モーセはしゅうとの言うことを聞き入れ、すべて彼が言ったとおりにした。
  • 18:25 モーセはイスラエル全体の中から力のある人たちを選び、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として、民の上にかしらとして任じた。
  • 18:26 いつもは彼らが民をさばき、難しい事件はモーセのところに持って来たが、小さな事件はみな彼ら自身でさばいた。