「苦役から救い出す神。」 出エジプト記6章1節~9節 

「神である主は人を連れて来て、エデンの園に置き、そこを耕させ、また守られた。」(創世記2・15)とあるように、労働は人の使命であり、妻と愛し合って働くならば人としての喜びと生き甲斐があります。ところが、罪によって、男と女は罪を擦り付け合い、「苦しんで食を得ることになる。」(創3・17)のでした。

AI(アーティフィシャル インテリジェンス 人工知能)によってなくなる仕事は、一般事務職、電車やタクシーの運転手、スーパーやコンビニの店員、銀行員、警備員、ライター、通関士、会計監査、ホテル客室係、コールセンター業務、などであるとされています。ChatGPTが始まりましたが、人間のような自然な会話ができて、文章を作り、回答をすることができるので、驚かれています。

つまり、AIが機能する未来において、人間が必要とされる仕事は少なくなり、優秀でないと働くことができなくなるのです。中国での2022年の大学卒の文系の就職率は12.4%、理系で29.5%であり、韓国でも6割程度しかないようです。

日本では、人不足が叫ばれ、レストランの従業員、タクシーやバスの運転手、建設作業員、農業などで仕事ができなくなっていますが、賃金を上げれば商売が成り立たず、結局、人を雇わない業態に代わっていきます。合理化という言葉は、生産性を基準に人件費を抑えるものです。

歴史的には、庶民はいつも、圧政と戦争に巻き込まれて苦役を強いられる存在でした。第二次世界大戦後のような束の間の平和と繁栄は、長くは続かないものですが、愚かな人々は将来に対する緊張感なく、怠惰な生活を送り、犠牲になっていくというのも常のことです。

「イスラエルの子らは重い労働にうめき、泣き叫んだ。重い労働による彼らの叫びは神に届いた。」(出2・23)。「彼らは、主がイスラエルの子らを顧み、その苦しみをご覧になったことを聞き、ひざまずいて礼拝した。」(同4・31)。

モーセとアロンが、エジプトの王に「荒野へ三日の道のりを行かせて、私たちの神、主にいけにえを献げさせてください。そうでないと、主は疫病か剣で私たちを打たれます。」(出5・3)と言ったのは、王を怒らせるためです。王は怒り、イスラエル人への苦役を重くします。イスラエルの人々は、「主があなたがたを見て、裁かれますように。あなたがたは、ファラオとその家臣たちの目に私たちを嫌わせ、私たちを殺すため、彼らの手に剣を渡してしまったのです。」(5・21)と怒ります。

民もモーセも、自分の都合の良いように物事が動くことを考え、願うのです。信仰も、戦いの意欲もなく、甘えているのです。

主は、モーセに、「あなたには、わたしがファラオにしようとしていることが今に分かる。彼は強いられてこの民を去らせ、強いられてこの民を自分の国から追い出すからだ。」(出6・1)と言われる。「後、知るべし」ということですが、納得いかなければ行動しない人々は、信仰者とは言いません。

神は人を助け、救おうとされる時、私たちが救いに値するかどうか、必ず確かめるのです。自分にとって都合の良いことを求め、苦難や試練を耐えることのできない人々は、天国には相応しくない判断されます。更に、苦難の時に、神に助けを求めずに不平不満や愚痴をこぼす人を救うことはありません。

ある程度の収入があり、平穏に暮らせれば、それで良い、という信仰者もおります。ただ、イエス様は「自分を捨て、自分の十字架を負ってわたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。・・・人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちと共に来ます。そして、その時には、それぞれその行いに応じて報います。」(マタイ16・24-27)と警告されました。

「そんな熱心な信仰を持たなくても、普通に生きて神を信じていれば、天国に行けるのに。」と考えている人も実は多くおります。「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」(マタイ7・21)

再臨というものは、神の裁きが明らかになる時です。認罪感のない人は、自分が有罪になると思わずに平気で犯罪を繰り返しています。神の裁きが厳しいものだと思わずに怠惰に生きていて、裁きの時に、「呪われた者ども。わたしから離れ、悪魔とその使いのために用意された永遠の火に入れ。」(マタイ25・41)と言われるのです。

多くの人が、出エジプトの時の奇跡や神の顕現を喜びますが、そのようにして奇跡的にエジプトを脱しても、神に従わず、神の掟を悟らず、滅びていった人が殆どであったことを見逃してはいけません。「彼らは失意と激しい労働のために、モーセの言うことを聞くことができなかった。」(6・9)。苦しいことが不信仰の言い訳にはなりません。縁故や功績で天国に入れるほど、天国の入場券は安くはありません。天国の入場券の代価は、自分のいのちであり、命懸けの信仰であると私は思っています。いまだ、十分ではありません。

出エジプト記6章1節~9節

  • 6:1 【主】はモーセに言われた。「あなたには、わたしがファラオにしようとしていることが今に分かる。彼は強いられてこの民を去らせ、強いられてこの民を自分の国から追い出すからだ。」
  • 6:2 神はモーセに語り、彼に仰せられた。「わたしは【主】である。
  • 6:3 わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現れたが、【主】という名では、彼らにわたしを知らせなかった。
  • 6:4 わたしはまた、カナンの地、彼らがとどまった寄留の地を彼らに与えるという契約を彼らと立てた。
  • 6:5 今わたしは、エジプトが奴隷として仕えさせているイスラエルの子らの嘆きを聞き、わたしの契約を思い起こした。
  • 6:6 それゆえ、イスラエルの子らに言え。『わたしは【主】である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役から導き出す。あなたがたを重い労働から救い出し、伸ばされた腕と大いなるさばきによって贖う。
  • 6:7 わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、【主】であり、あなたがたをエジプトでの苦役から導き出す者であることを知る。
  • 6:8 わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地にあなたがたを連れて行き、そこをあなたがたの所有地として与える。わたしは【主】である。』」
  • 6:9 モーセはこのようにイスラエルの子らに語ったが、彼らは失意と激しい労働のために、モーセの言うことを聞くことができなかった。