「試練が続いても祝福される。」 出エジプト記1章5節~14節

赤ちゃんの唯一の表現方法は、泣くことです。母親を含め周囲の者は、その泣き声に応じて、オシッコ、おっぱい、その他を察して対応します。成長して言葉が話せるようになっても、子供は泣きます。それほど自己表現がうまくないのと、大人の価値観を理解できないので、泣くしかないのです。泣くことができない子は、おります。大人は泣かないで育つ子を喜びますが、泣くことを怒り罰したりすると泣かなくなります。自己表現や要求を出せない子の表情は、苦しそう、辛そう、そして嫌な顔になっていきます。

そのような子供達を見ていて、神も私たちの泣き声や苦しみを察して取り計らってくださるのを感じます。ところが、人間もいじけて来ると悲しみ苦しみを外に出さなくなります。そして、人間の価値観に沿って、我慢するのが偉い、立派だと思ってしまいます。民族性もありますが、日本人は喜怒哀楽の表現が下手で、外面を装う特徴があります。

外国人には、そのような日本人を理解することが難しく、また誤解されることもあります。日本人は、察することができない人々を嫌うことが多いのですが、察するということは、その人自身の経験や教育・慣習によることので、日本人同士でも誤解が多くなってきています。

「イスラエルの子らは重い労働にうめき、泣き叫んだ。重い労働による彼らの叫びは神に届いた。神は彼らの嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの子らをご覧になった。神は彼らをみこころに留められた。」(出エ2・23-25)。

私たちは、神に向かって叫び、神の前で泣くということを率直になし、神に助けを求めることをしっかりと身に付けなければなりません。我慢が身に付いてしまった人は、神が助けてくれることを信じることを捨ててしまったのです。日本には、それを美徳と信じ、また教えることがありますが、我慢しても解決するわけではありません。我慢は、聖書が教える忍耐とは全く異なるものです。「苦難が忍耐を生みだし、忍耐が練られた品性を生みだし、練られた品性が希望を生み出す」(ローマ5・3.4)のは、「神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(5・5)。

試練や苦難、災害や事故、怪我や病気、誰にでも起こりうることです。しかし、信仰者は、そこにあっても神が解決してくださる、良きように導いてくださると信じるのです。そして、「増えて非常に強くなった。こうしてその地は彼らで満ちた。」(7)という祝福を得るのです。しかし、そうすると、敵は「彼らを賢く取り扱おう。」(10)として、私たちを巧妙に苦しめるのです。

「しかし、苦しめれば苦しめるほど、この民はますます増え広がったので、人々はイスラエルの子らに恐怖を抱くようになった。」(12)。信仰者への迫害や攻撃は、神が守ってくださるので無駄です。ところが、多くの場合、信者自信が、神の守りを信じないで世と妥協するのです。

マリヤ・クリニックは、新型コロナに対するワクチンの無効性・危険性を訴えました。ワクチンを接種しないということで他の医療機関に移った人もおりましたが、結局のところ、多くの人が万全なコロナ対策をしているマリヤ・クリニックに集まりました。院長の診察の優秀さもあって、評判も高まっています。㈱ヨーゼフも、営業も宣伝もしていないのに患者さんから信頼を受け続けて売り上げは落ちていません。当教会も、新型コロナ禍でも通常の礼拝を続けて教勢は伸び、献金も増えています。他方、残念ながら、コロナ感染を恐れて礼拝を縮小したり、オンラインだけにした教会は、ダメージを受けています。

今日の説教題は「試練が続いても祝される。」です。「わたしの義人は信仰によって生きる。もし恐れ退くなら、わたしの心は彼を喜ばない。」(へブル10・38)とあるように、「恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者」(同39)である必要があるのです。

 恐れる人々、不信仰な人々は、攻撃的になります。世の中の騒動を見ればわかります。行政、会社、組織、個人に対して、批判や攻撃に夢中になっています。私たちは、そのようなものを恐れてはいけません。活動を縮小した教会では、感染を恐れた信者の意見が通ったようです。祈らない人々、不信仰な人々は、困難な時にその偽りが現れます。

 15節からのへブル人の助産婦は「神を恐れ」(1・17)たので、王の命令にも従わずに、へブル人の男の子を生かしました。脅されても、信仰に生きて勇気をもって働いた「助産婦たちは神を恐れたので、神は彼女たちの家を栄えさせた。」(1・21)。

 私も妻も、教会員もコロナに感染しました。むろん、対策を十分に行い、感染したら万全な措置を取ります。感染者への支援も行いました。支障を受けた人はおらず、教会は却って強くなりました。恐れて行動を縮小し、隠れて過ごしてはいけません。

 終末に災害や飢饉、戦争や社会の崩壊が続くのは、私たちの真実が現れる為の神からの試練のような気がします。恐れ退く人は、滅びるのです。

「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。」(詩篇121・1.2)

出エジプト記1章5節~14節

  • 1:5 ヤコブの腰から生まれ出た者の総数は七十名であった。ヨセフはすでにエジプトにいた。
  • 1:6 それから、ヨセフもその兄弟たちも、またその時代の人々もみな死んだ。
  • 1:7 イスラエルの子らは多くの子を生んで、群れ広がり、増えて非常に強くなった。こうしてその地は彼らで満ちた。
  • 1:8 やがて、ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こった。
  • 1:9 彼は民に言った。「見よ。イスラエルの民はわれわれよりも多く、また強い。
  • 1:10 さあ、彼らを賢く取り扱おう。彼らが多くなり、いざ戦いというときに敵側についてわれわれと戦い、この地から出て行くことがないように。」
  • 1:11 そこで、彼らを重い労役で苦しめようと、彼らの上に役務の監督を任命した。また、ファラオのために倉庫の町ピトムとラメセスを建てた。
  • 1:12 しかし、苦しめれば苦しめるほど、この民はますます増え広がったので、人々はイスラエルの子らに恐怖を抱くようになった。
  • 1:13 それでエジプト人は、イスラエルの子らに過酷な労働を課し、
  • 1:14 漆喰やれんが作りの激しい労働や、畑のあらゆる労働など、彼らに課す過酷なすべての労働で、彼らの生活を苦しいものにした。