「神を定義づけてはいけない。」 出エジプト記3章7節~14節

外国人と話していて気が付くことは、他の人の噂をしない、悪い評判を立てないということです。しかし、日本人、特に奥様方の評判話は怖いほどですが、却ってご自分を拘束しているようにも見えます。

若い時の私は、失敗をしてはいけない、という自負心が強く、緊張状態が続いていたようです。結婚してからも、不注意な行動が多い妻を気にして言動に強い所が多くありました。

最近の自分の変化には、自ら驚いています。発達障害の本で、妻の障害を公にしたこと、教団の役職を解かれたこと、子どもたちが自立したことなどがあるでしょう。

過去の自分への評判について、悪いものも良いものも、有り得ると受け入れています。祈祷会で語った「後ろのものを忘れ、前のものに向かって・・・、目標を目指して走っているのです。」(ピリピ3・13.14)が実感です。自らを問えば、正当化しようもない罪びとですが、「卑しいからだを、ご自分の栄光に輝く姿に変えてくださいます。」(同21)と感じています。

ところが、過去の私の評判や働きに引きずられるような期待や要請に苦慮しています。公的な仕事、対外的な役割は、対人的なものに関わるから、その人々の思惑を考慮しなければならないからです。

神がイスラエルの民をエジプトから導き出す時、エジプトの人々に対して神をどのように伝えるかをモーセが神に問うた時、「わたしは『わたしはある』という者である。」(14)と答えなさいと言われました。ヘブル語では、「エフイェ・アシェル・エフイェ」(わたしは在りたいと思うように在る)であり、それを簡潔にするとYHWH(ヤーウェ)という神の名になります。「主」と訳される言葉はYHWHであり、敬虔なユダヤ人は「主の名をみだりに口にしてはならない。」(出20・7)の十戒に基づいて、ヤーウェと発音せず、アドナイなどの言葉で呼びました。

しばしば、「主が私にこういうことを示されました。」という方がいますが、それは敬虔な信仰者としては言ってはいけない言葉です。つまり、結果もわかっておらず、真に語り掛けたかもわからない状況で「主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない。」(出20・7)とあるからです。「偽使徒、人を欺く働き人であり、キリストの使徒に変装しているのです。・・・サタンでさえ光の御使いに変装します。」(Ⅱコリント11・13.14)とあり、自らの主張を正当化するために、「主の名をみだりに」使うことは慎まなければなりません。

「神は愛です。」(Ⅰヨハネ4・16)として、自分の都合の良いように「愛なる神は裁かない。助けてくれる。」などと考えてもいけません。その後に続く言葉は「愛のうちにとどまる」とあり、神が愛であるから自分にとって不都合なことがあっても神を信じて生きるということです。

モーセに命令されたことは、イスラエルの民をエジプトから救い出せという大変困難な使命です。しかし、人々は、自分の暮らしが不自由になり恐れが募るとモーセに不満を言い従おうとしません。人間は本来、信仰よりも自分の都合や損得で生きる存在なので、神をも御利益をもたらす存在として求めます。その象徴が「神は愛」という自分にとって得なものをもたらしてくれる神を愛として捉えるのです。

神を自分にとって都合の良い神、つまりしもべの神として捉える考え方から変わり、神はご自分の判断で働き、私たちが神に仕えるしもべなのであると従順を学ぶことが信仰の奥義なのです。

信仰も当初は、自分の魂を救ってくださる愛の神であると喜びますが、人間の罪性は簡単なものではありません。罪を悔い改めたのだから、天国に行って当然、神は愛なのだから、もっと私を助けてくださるはずだと考えるのです。それが罪なのですが、そこで悔い改めるか否かが、確かに天国の鍵となるのです。  

神はこうであると勝手に考えたり、判断したりしないことが大事です。信仰から堕ちる人は、当初、働かなければならない、忙しい、反対や攻撃がある、などの理由があり、それを神は理解してくださるはずだと考えているようです。ところが教会に来ることから離れている間に、信仰心が薄れ、どうでもよくなってくるのです。そして、誘惑に陥るのです。ひどい場合には、教会や信仰を否定し攻撃するようになります。「聖霊を冒涜する者は、だれも永遠に赦されず、永遠の罪に定められます。」(マルコ3・29)。

自分にとって都合の悪いことも、試練も覚悟して、聖書の言葉通りに誠実に信仰を持って生きていくことが大事です。そうすれば必ず、エジプトのような奴隷の苦しみから解放され、自由を得て、約束の祝福を得ることができるのです。

「エジプトから上って来た者たちで二十歳以上の者はだれも、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った地を見ることはない。わたしに従い通さなかったからである。ただ、ケナズ人エフンネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアは別である。彼らが【主】に従い通したからである。」(民数記32・11.12)。

神の国に入ることは容易いことではありません。自己中心な者は神の国にはふさわしくないからです。神の在り方を勝手に、解釈して自分の都合の良いように考えると滅びに至ります。

出エジプト記3章7節~14節

  • 3:7 【主】は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見、追い立てる者たちの前での彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを確かに知っている。
  • 3:8 わたしが下って来たのは、エジプトの手から彼らを救い出し、その地から、広く良い地、乳と蜜の流れる地に、カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる場所に、彼らを導き上るためである。
  • 3:9 今、見よ、イスラエルの子らの叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプト人が彼らを虐げている有様を見た。
  • 3:10 今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。」
  • 3:11 モーセは神に言った。「私は、いったい何者なのでしょう。ファラオのもとに行き、イスラエルの子らをエジプトから導き出さなければならないとは。」
  • 3:12 神は仰せられた。「わたしが、あなたとともにいる。これが、あなたのためのしるしである。このわたしがあなたを遣わすのだ。あなたがこの民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で神に仕えなければならない。」
  • 3:13 モーセは神に言った。「今、私がイスラエルの子らのところに行き、『あなたがたの父祖の神が、あなたがたのもとに私を遣わされた』と言えば、彼らは『その名は何か』と私に聞くでしょう。私は彼らに何と答えればよいのでしょうか。」
  • 3:14 神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。」