「代価によって奴隷から贖い出される。」 出エジプト記12章5節~14節

安い物を高く買うのは愚か者で、高い物を安く買おうとする者は、浅薄な者だと思います。物の正当な代価を見積もるということは、見る目を持った人ができることで、多くの経験と人格が必要です。代価や犠牲を払わずに物を得ようとするのは、育てられ方が悪いか性格が悪いかでしょうが、神をそのように利用しようとすると天国には行けません。

人のいのちは尊いと言いますが、他人のいのちについては無責任なことがあります。自分のいのちについても、あまり考えないでいる人が多く、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。」(マタイ16・26)とイエス様が諭しています。

人生は信仰の試金石です。自分は信仰があると思い、公言しても、実際には、この世を優先して生きていくことために働かなければならないと教会にも来ず、聖書も読まず、祈りもしていないで済ましているのです。それで神の国に入れると思うのは、人間が自己中心な存在、罪人だから、当然なのです。「いのちを買い戻す」ことは人間には不可能なことはわかっているはずです。悔い改める(方向転換)ことなく、自分中心な生活をするのが人間の本性なのです。

人が救われる為には代価が必要です。十字架でイエス様が死なれたのは、ご自分のいのちを私たちのいのちの代価として犠牲にしなければならないからなのです。「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」(マルコ10:45)。

自分中心の生活をしていて、「私はイエス様を救い主として信じるから天国に迎え入れてください。」という願いは、自分のいのちの価値を安く見積もり過ぎているのです。実は、そういう自称クリスチャンが多いのです。「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。」(Ⅰコリ 6:20)。その代価とはイエス・キリストです。

救いとは、自分が死に値する罪びとであることを認めて悔い改めることです。悔い改めたら救われるということの代価は、イエス様が既に私たちのいのちの身代わりに死んでくださったということなのです。そのキリストの代価を軽んじて、信じるだけで救われるということはないのです。死に値する罪びとであることを認め、この地上のいのちはキリストに買われたものであることを理解したら、勝手な生き方はできないのです。

生贄を理解できない日本人は多いでしょう。日本神話にはあったようですが、農耕民族には生贄として献げる動物が少なかったのでしょう。

日本における神意識は、集団の秩序を守る方便や手段としての存在を偶像化したものが多いようです。罰が当たるとか、一族の神社とか、仏教もそのような家制度の存続に用いられてきました。死後の世界も、みんなが死んでいくのだからしょうがないというような無情観が有ったようです。

キリスト教の唱える天国や救いも、多くの日本人には違和感があるようです。そもそも人格神という意識がないので、天国に迎えられる資格などと考えていないのです。これはアジアでも珍しいでしょうし、世界的には稀有な無神論社会です。そういう神観念によってクリスチャンも惑わされているのです。

イスラエルの人々を奴隷状態であったエジプトから救い出すために、子羊の血を、家の門柱と鴨居に塗るということは、その血が「滅ぼす者があなたがたの家に入って打つことのないようにされる」(12・23)印となるということです。塗っていない家の長男は、皆打たれ死にました。裁きの神としての恐ろしい顕現です。

種なしパンとは、発酵をさせないで小麦を練って焼いたものです。苦菜は現代でも肉と一緒に食べます。「腰の帯を固く締め、足に履き物をはき、手に杖を持って、急いで食べる。これは【主】への過越のいけにえである。」(11)ということは、直ぐに旅立つということで、「この日は、あなたがたにとって記念となる。あなたがたはその日を【主】への祭りとして祝い、代々守るべき永遠の掟として、これを祝わなければならない。」(14)。つまり、実際にエジプトから脱出させることと、子孫への信仰教育を兼ねた儀式の掟作りということです。

聖書信仰とは、このようにきちんと教えなければ身に付かず、犠牲や代価を払わなければ大事なものを得ることはできないことがわからないのです。聖書信仰が真実なものかどうかを判断するのは自分自身です。ただ、自分の基準で天国に行けると考えるのは間違っています。

現代は博愛主義の時代で、聖書も戒律的には読まず、穏やかな神の愛として捉えますが、それは人間にとって都合の良い解釈です。ところが、神の国に受け入れるか否かは、神の判断であって人間の都合や言い訳は通じません。原理主義として遠ざけるのが現代の風潮です。

過越しの日は、イエス様が十字架に掛かった日で、子羊イエスの血が私たちの罪を贖い、罪の奴隷であった私たちを救ってくださいました。この過越しの7日間は、種なしのパンを食べなければならず、「種入りのパンを食べる者は、みなイスラエルから断ち切られる」(12・15)という恐ろしい戒律をユダヤ人は命がけで守ることになります。

出エジプト記12章5節~14節

  • 12:5 あなたがたの羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。
  • 12:6 あなたがたは、この月の十四日まで、それをよく見守る。そしてイスラエルの会衆の集会全体は夕暮れにそれを屠り、
  • 12:7 その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と鴨居に塗らなければならない。
  • 12:8 そして、その夜、その肉を食べる。それを火で焼いて、種なしパンと苦菜を添えて食べなければならない。
  • 12:9 生のままで、または、水に入れて煮て食べてはならない。その頭も足も内臓も火で焼かなければならない。
  • 12:10 それを朝まで残してはならない。朝まで残ったものは燃やさなければならない。
  • 12:11 あなたがたは、次のようにしてそれを食べなければならない。腰の帯を固く締め、足に履き物をはき、手に杖を持って、急いで食べる。これは【主】への過越のいけにえである。
  • 12:12 その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人から家畜に至るまで、エジプトの地のすべての長子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下す。わたしは【主】である。
  • 12:13 その血は、あなたがたがいる家の上で、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたのところを過ぎ越す。わたしがエジプトの地を打つとき、滅ぼす者のわざわいは、あなたがたには起こらない。
  • 12:14 この日は、あなたがたにとって記念となる。あなたがたはその日を【主】への祭りとして祝い、代々守るべき永遠の掟として、これを祝わなければならない。