「私にあるものは何か。」 使徒の働き3章1~10節
胆石は家系とは言え、手術になってしまったのは自己管理の甘さと反省しました。まだ、脂肪肝と腎臓結石があります。言い訳をしていたら、これから十分に神に仕えることができません。
「ペテロとヨハネは、午後3時の祈りの時間に宮に上って行った。」。新会堂では、朝から夕方までは会堂を開けておいて誰でも自由に祈れるようにしたいものです。祈りの時間も設けたいですね。
イスラム教では、メッカの方に向いて①日の出前、⓶正午、③午後、④日没、⑤就寝時と5回お祈りします。イスラムのホームページには、都市毎の礼拝時間とメッカの方向が記されています。男女別に、膝まづいておでこを地面に押しつけて祈るのです。場所は構いません。私は、このような宗教姿勢は非常に大事だと思っております。
現代キリスト教では、そのような敬虔な姿勢での祈りは少なく、膝を組んで手も合わせないで祈る人々が多くなっています。おそらく、神に祈るという真摯な思いではなく、自分の心を整えることが宗教行為だと思っているのでしょうか。私には、それで神に祈りが通じるとはとても思えません。金持ちの祈りは聞き入れられず、貧しいやもめの祈りが聞き届けられた(マルコ12・42)のは、その真摯な信仰に依ります。現代社会のクリスチャンの信仰は形骸化しているのに反して、厳しい祈りを義務付けられてもしているイスラムの信仰者は、極端や適正なものとは思われないとしても、真摯なものとして感心します。牧師たちは、それを律法的な教えとか、マインドコントロールと解しますが、多くは普通の人々です。
手術を待つ間、「私にあるもの」とは何かと自問しました。
① 自分自身。
信仰前後の自分を比較すれば、生き甲斐のない自分が、今のように恵みにあふれた喜びの人生を送れていることは、神からの賜物です。
② 家族。
最初から神から預けられたものとして対応し、育ててきたつもりです。自分が死んでも神に任せるばかりです。
③ 自分の能力と時間。
十分の3くらいは自分の自由に使い、後は神に献げる自己形成に努めてきたつもりです。
④ 財産。
やはり十分の3くらいは自分の為に使ったでしょうか。
現在の自分にあるものは、殆ど神の恵みによるものです。「私にあるもの」とは、自分の私有権でしょうが、「私の倉」(ルカ12・18)と誇った金持ちが「愚か者」(20)とされ、「自分のために蓄えても、神に対して富まない者は」(21)と警告されたことを心に刻んで生きているので、私有権は放棄しようと決心しています。それでも年金などがあるので、再臨が遅くなっても生きていけるでしょう。
「金銀は私にはない」(3・6)とペテロは言いましたが、たとえあったとしても「生まれつき足の不自由な人」を治すことは現代医学でもできません。人は、先ほどの金持ちのように金さえあれば、「さあ休め、食べて、飲んで、楽しめ」(12・19)ることができると考えています。逆に、金のない人は、金があったら何でもできると考え、不平不満を持つのです。それは、能力においても同様です。
ペテロとヨハネは、十字架と復活のイエスを知り、もはやこのイエス様に身を委ねた歩みを始めていました。そして、この世のもの全てに価値がなく、イエス様にこそ力と将来があることを悟ったのです。
ペテロは、生まれつき足の不自由な「40歳を過ぎていた」(4・22)乞食に、神を求める信仰があることを確認して、「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」(6)と宣言します。すると、彼の内に力がみなぎり、足とくるぶしが強くなり、立ち上がり歩くことができました。
「このイエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに、あなたがたが今見て知っているこの人を強くしました。」(16)。癒しの祈りや奇跡の祈りは、対象の人自身に応じる信仰がなければ働きません。相手が未信者や意識のない人の場合、その人がその後に神を信じる場合に奇跡が起こります。しかし、その人が神に栄光を帰さないと祝福を失います。
私自身は、21日間の断食によって小児まひの症状を持った女性を主の名によって癒したのに、その後、もっと癒しを求めて教会を移り、ついには信仰を捨てたのにショックを受けて、癒しの祈りをあまり祈らなくなりました。心臓麻痺で死にそうになった女性も便宜を求めて引っ越して行ったのにも落胆しました。彼女は後に死にました。
癒しの祈りは力が要ります。しかし、ペテロのように、霊に燃え、主の業に励むべきであると悔い改めております。
使徒の働き3章1~10節
- 3:1 ペテロとヨハネは、午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。
- 3:2 すると、生まれつき足の不自由な人が運ばれて来た。この人は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」と呼ばれる宮の門に置いてもらっていた。
- 3:3 彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。
- 3:4 ペテロは、ヨハネとともにその人を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。
- 3:5 彼は何かもらえると期待して、二人に目を注いだ。
- 3:6 すると、ペテロは言った。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
- 3:7 そして彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、
- 3:8 躍り上がって立ち、歩き出した。そして、歩いたり飛び跳ねたりしながら、神を賛美しつつ二人と一緒に宮に入って行った。
- 3:9 人々はみな、彼が歩きながら神を賛美しているのを見た。
- 3:10 そしてそれが、宮の美しの門のところで施しを求めて座っていた人だと分かると、彼の身に起こったことに、ものも言えないほど驚いた。
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