「歴史に刻まれる神のしるし。」 出エジプト記10章1節~7節

創世記の記録は、アダムの直系子孫の口伝によって保持されてきたものと言われています。ユダヤ教徒の子供は、13歳になった時にバル・ミツワ(戒律の子)と呼ばれる成人式を行います。そこでは、ラビ(ユダヤ教教師)が示す律法(創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記)の箇所を朗読しなければなりません。詩篇の9,10,25,34,37,111,112,119,145篇はヘブル語のアルファベット順に記されていますが、それはユダヤ人の子供が暗記暗唱するためのものだそうです。

預言者エゼキエルは、「『人の子よ。わたしがあなたに与えるこの巻物を食べ、それで腹を満たせ。』私がそれを食べると、それは口の中で蜜のように甘かった。」(エゼキエル3・3)と神に命じられました。

黙示録には、「私はその御使いのところに行き、『私にその小さな巻物を下さい』と言った。すると彼は言った。『それを取って食べてしまいなさい。それはあなたの腹には苦いが、あなたの口には蜜のように甘い。』」(黙10・9)とあります。

聖書は、神が人と世界に現わした働きと意味を示し、それによって神の人格と人の救いの道を明らかにする記録です。多くの人が、聖書を神話として捉えています。神話は、寓話(嘘の夢物語)や仮想のあり得ない話があり、特に創世記や奇跡の記録などについて、聖書に関して神話的な扱いをする人々がおります。

アブラハムの時代の記録について、考古学の研究の成果として聖書の記録が事実であったことが多くわかってきました。歴史的に最もはっきりとした一番古い記録は、へブル人の出エジプトです。紀元前1500年ごろ、壮年男子だけで60万人、総勢数百万人のへブル人のエジプト脱出とカナン定着は、歴史的に否定することができません。神を信じない歴史家は、聖書に記されたような大規模なことが起こるはずがない、と理論的常識的に小規模のものであると捉えますが、小規模の人々ではカナン占領はできなかったのです。

「わたしがエジプトに対して力を働かせたあのこと、わたしが彼らの中で行ったしるしを、あなたが息子や孫に語って聞かせるためである。こうしてあなたがたは、わたしが【主】であることを知る。」(10・2)

神を信じない、神に従わない人々は、「わたしの前に身を低くするのを拒むのか。」(3)という人々です。ファラオはその典型でしょう。家臣たちは、自分の所有ではないので、「この男は、いつまで私たちを陥れるのでしょうか。この者たちを去らせ、彼らの神、【主】に仕えさせてください。エジプトが滅びるのが、まだお分かりにならないのですか。」(7)と実利に従って判断しますが、神を信じ従っているわけではありません。

神は、歴史にご自分の尊厳を刻みます。その神の威容を知り、ある人は、神を信じ従い、ある人は、神話として寓話として気にも留めないのです。神がエジプトに下した災いは、①ナイル川の水が血に変わった。②カエルが地を埋め尽くした。③ブヨが大量発生して人や家畜を襲った。④アブの大群がエジプト人を襲った。⑤伝染病が家畜を襲った。⑥煤が腫物を起こした。⑦雹が作物を枯らした。⑧イナゴが地を覆い、食べ尽した。⑨暗闇が3日間エジプトを覆った。⑩エジプト人の長男が死んだ。それでも、エジプト人は神を信じず、ただ恐れただけでした。

ところが、エジプトを出る際に、「エジプトに銀の飾り、金の飾り、そして衣服を求めた。主はエジプトがこの民に好意を持つようにされたので、エジプト人は彼らの求めを聞き入れた。」(出12・35.36)。「入り混じって来た多くの異国人」(12・38)がいるのは、彼らが神を信じ求めたからでしょう。

信仰者も、自らの出エジプトを体験しなければなりません。罪にまみれた社会と自らの罪の生活から、旅立つ必要があるのです。ペテロは、「わたしについて来なさい。」(マタイ4・19)というイエス様の呼びかけに応じて、直ぐに「網を捨ててイエスに従った。」(20)。ヤコブとヨハネの兄弟は、イエス様に呼び掛けられて「直ぐに舟と父親を残してイエスに従った。」(22)。マタイも「わたしについて来なさい。」という呼びかけに応じて、取税人の仕事を辞めました。

ヨシュアと共にカナンの地に入ることができたカレブは、「あなたの足が踏む地は必ず、永久に、あなたとあなたの子孫の相続地となる。あなたが私の神、主に従い通したからである。」(ヨシュア14・9)とモーセに誓われたことを語り、「私は八十五歳です。今も私は壮健です。」(同10.11)と誇りました。

今や、社会は不信仰と快楽追及に満ちています。この時代に奇跡や不思議を見せても、人々は話題にするだけで、神を求め、信じ従う人は殆どいないでしょう。

教会は、総会を経て、神を信じ従い信仰を全うしようとする人と、自分の利益や事情に左右されて信仰を揺るがせている人を区別します。それは、後者では神の国に入ることができないことを生きている間に、忠告するためです。神の国の門で拒まれないように、自らの信仰を強くしてもらいたいのです。神は、歴史と私たちの生活でご自分で現わせられました。それをどのように捉えるか、私たちはしっかりとわきまえなければなりません

出エジプト記10章1節~7節

  • 10:1 【主】はモーセに言われた。「ファラオのところに行け。わたしは彼とその家臣たちの心を硬くした。それは、わたしが、これらのしるしを彼らの中で行うためである。
  • 10:2 また、わたしがエジプトに対して力を働かせたあのこと、わたしが彼らの中で行ったしるしを、あなたが息子や孫に語って聞かせるためである。こうしてあなたがたは、わたしが【主】であることを知る。」
  • 10:3 モーセとアロンはファラオのところに行き、彼に向かって言った。「ヘブル人の神、【主】はこう言われます。『いつまで、わたしの前に身を低くするのを拒むのか。わたしの民を去らせ、彼らがわたしに仕えるようにせよ。
  • 10:4 もしあなたが、わたしの民を去らせることを拒むなら、見よ、わたしは明日、いなごをあなたの領土に送る。
  • 10:5 いなごが地の面をおおい、地は見えなくなる。また、雹の害を免れてあなたがたに残されているものを食い尽くし、野に生えているあなたがたの木をみな食い尽くし、
  • 10:6 あなたの家とすべての家臣の家、および全エジプトの家に満ちる。これは、あなたの先祖も、またその先祖も、彼らがこの土地にあった日から今日に至るまで、見たことがないものである。』」こうして彼は身を翻してファラオのもとから出て行った。
  • 10:7 家臣たちはファラオに言った。「この男は、いつまで私たちを陥れるのでしょうか。この者たちを去らせ、彼らの神、【主】に仕えさせてください。エジプトが滅びるのが、まだお分かりにならないのですか。」