「主は掟と定めを授け、試みる。」 出エジプト記15章20節~27節

十の災いと奇跡をもって神は、エジプトからイスラエルの民を救い出し、更に追い迫るエジプト軍を紅海に溺れさせて、自由の民としたのでした。モーセの姉ミリアムがタンバリンを手に踊りながら神を讃美したのです。彼らは踊りながら、自分たちの自由を喜びました。

 しかし、そこから試練の旅路、人生が始まります。神を信じていてもいなくても、誰にも人生は試練の連続ですが、神を信じる者は試練に際しても自らを成熟させていきます。「試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。」(Ⅰペテロ1・7)。

それは、「信仰の結果である魂の救いを得ているからです。」(同9)。思い通りに生きようとするのは罪びとであるからで、魂の救いとは、そのような自己中心を悔い改めてこそ得られるものだから、試練を思い通りにやりこなそうと思わずに受け留め受け容れられるのです。

 彼らは、3日間荒野を歩いて、のどが渇き、水もなくなり、見つかりもせず、マラについても水が苦くて飲めなかったので、モーセに不平を言います(24)。指導者、上司、家長、夫、父などに対する不満不平は、その人が未熟なせいです。或は魂が救われていないからです。彼らは、奴隷生活に慣れていたので(罪の奴隷)、不平不満が日常だったのです。

 大学時代、E・フロムの「自由からの逃走」を読んで、人が自ら自由を放棄してしまうことを学びました。一つは権威主義への逃避であり、他人を自分の権威の下に置いたり、他人の権威に託すことによって自己責任から逃れるのです。また破壊主義への逃避は、自他を攻撃することによって不安から逃れようとします。さらに、機械的画一性への逃避は、周囲の人と合わせることによって、自由に生きることを放棄します。フロムは、ドイツがナチスに支配される経緯を分析したのですが、紀元前1500年でも、現代日本でも十分当てはまります。多くの人は、自由を行使するほど成熟しておらず、どのように自己責任で生きるかを身に付けていないのです。

 イチロー選手が、高校野球で厳しい指導をできなくなって、高校生も自己管理で自分を鍛えなければならなくなって酷なことであると発言しています。親や指導者が厳しく指導してくれなければ、子供は自分を甘やかして易きに流れるものなので、強くなることはできない。そして、自己管理できない人が安易に切り捨てられる時代になっていると指摘しました。

 最近は、親も自らに甘いので、子供を厳しく育てることもできません。学校や組織の指導者も、そして牧師も、「愛」という安易な隠れ蓑の下で、人を教え育てる義務を果たしていません。しかし、神は、「掟と定めを授け、そこで彼を試み」(25)るのです。苦くて飲めない水も、甘くなるように、辛くて苦い体験も甘い思い出になるのです。

 この後も、食べるパンがないと不平を言います。そうすると神は天からマナを降らせます。これもまた、「彼らがわたしの教えに従って歩むかどうかを試みるためである。」(16・4)と神は言われます。まだ信仰を悟っておらず身に付けていない民に対して辛抱強く神は教えるのです。そして、夕方には「うずらが飛んできて宿営をおおった。」(13)ので、肉も食べることができました。6日目には、二日分のマナを取れました。それは安息日を守るためです。

 不平を言うことを身に付けた民は、「あなたがたの不平は、この私たちに対してではなく、主に対してなのだ。」(8)とモーセは怒りますが、これらのことは、モーセに対する指導者教育でもありました。荒野で水がないとして「今にも彼らは私を石で打ち殺そうとしています。」(17・4)とモーセは主に嘆きます。思い通りにならないと暴力的になるのは、愚かな人々の特徴ですが、モーセは自分の権威で水を湧き出させることを学ぶのです。「あなたはその岩を打て、岩から水が出て、民はそれを飲む。」(6)。指導者は神に叫ぶだけではいけないのです。

 更にアマレクが来て、イスラエルを襲います。「モーセが手を高く上げている時はイスラエルが優勢になり、手を下すとアマレクが優勢になる」(11)ので、民もモーセ自身も指導者の権威たるものを理解していきます。そして、「主はモーセに言われた。『このことを記録として文書に書き記し、ヨシュアに読んで聞かせよ。』」(14)。次の指導者への引継ぎ文書を残すのです。

 結局のところ、不平を言い続けた民は約束の地カナンに入ることができないのですが、次第にその後継者たちは掟と定めを身に付けていき、契約の民らしく成長していくのです。子育ても、教会員教育もこのように忍耐深く、掟と定めを教え続けないと、その人は滅びの民となっていきます。イチローの言うように高校野球ではありませんが、厳しい指導のできない指導者は、民を滅ぼすことになるのです。

出エジプト記15章20節~27節

  • 15:20 そのとき、アロンの姉、女預言者ミリアムがタンバリンを手に取ると、女たちもみなタンバリンを持ち、踊りながら彼女について出て来た。
  • 15:21 ミリアムは人々に応えて歌った。「【主】に向かって歌え。主はご威光を極みまで現され、馬と乗り手を海の中に投げ込まれた。」
  • 15:22 モーセはイスラエルを葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野へ出て行き、三日間、荒野を歩いた。しかし、彼らには水が見つからなかった。
  • 15:23 彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲めなかった。それで、そこはマラという名で呼ばれた。
  • 15:24 民はモーセに向かって「われわれは何を飲んだらよいのか」と不平を言った。
  • 15:25 モーセが【主】に叫ぶと、【主】は彼に一本の木を示された。彼がそれを水の中に投げ込むと、水は甘くなった。主はそこで彼に掟と定めを授け、そこで彼を試み、
  • 15:26 そして言われた。「もし、あなたの神、【主】の御声にあなたが確かに聞き従い、主の目にかなうことを行い、また、その命令に耳を傾け、その掟をことごとく守るなら、わたしがエジプトで下したような病気は何一つあなたの上に下さない。わたしは【主】、あなたを癒やす者だからである。」
  • 15:27 こうして彼らはエリムに着いた。そこには、十二の水の泉と七十本のなつめ椰子の木があった。そこで、彼らはその水のほとりで宿営した。