「あなたは神の代りとなる。」 出エジプト記4章10節~17節

指導者になりたがる人は多いのですが、相応しいかどうかは別なものです。エジプトの王子として英才教育を受け、優雅な生活を過ごしてきたモーセが、自分の同胞であるへブル人の苦難を見て立ち上がった時、「誰がお前を、指導者や裁き人として私たちの上に任命したのか。」(出2・14)と直ぐに拒まれました。モーセの上から目線の言動が嫌がられたのでしょう。

王子の地位を捨てて同胞の為に立ち上がったのに、拒まれて行く所、住む所もなくなったモーセは、ミディアンの野に逃れ、そこの祭司の娘と結婚し、羊の群れを世話して40年を過ごしました。

羊の特徴は、①臆病であって、すぐにパニックになり逃げだす。⓶身を守るために群れる。③倒れると自力で起き上がれない。④狼などに襲われたら終わり。⑤群れからはぐれたら戻って来られない極度の方向音痴。などと記されます。ニワトリと同じようだと感じますが、ニワトリは所かまわず糞をするので、それはどうでしょうか。ともかく、世話が焼け、油断をすると死んでしまいます。

指導者でなくても、自らの過ちや弱さを認めず、虚勢を張る人は、孤立していきます。羊やニワトリを相手に虚勢を張る人もいるかもしれませんが、羊は従うでしょうか。「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10・11)。「羊たちをみな外に出すと、牧者はその先頭に立って行き、羊たちはついて行きます。彼の声を知っているからです。」(同10・4)。

 神がモーセに「わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。」(3・10)と言われても、モーセはおじけづき、「彼らは私の言うことを信じず、私の声に耳を傾けないでしょう。」(4・1)と逃げるばかりです。40年前の人々の拒絶とその後の恐れが、彼の心に傷となっていたのです。

恐れは人の心を蝕みます。人に避難され、攻撃された経験を持つと、変わったことができなくなります。落第や受験の失敗、会社での降格や失業、家族や地域からの批判、犯罪歴、・・・様々なものが人の心の傷跡となり、前進を阻みます。エジプトの王子として育てられた華やかな若い時代は、自信と希望に満ちていたのに、一回の判断ミスでモーセは命を狙われるようなことになりました。

挫折経験は誰にもあることです。しかし、その経験にどのように対応するかで、その後の人生が変わってきます。私にとって、大学受験の失敗は、その当時では、神はいない、と思うほど、努力が報いられなかった悲惨な体験でした。しかし、信仰を持ってからは、まさかと思う大学院の不合格にもめげることはありませんでした。万事益として導いてくださる神を信じていたからです。

 モーセは、神を知っていましたが、いまだ「わたしはある」という神であると教えられても、よくわかっていませんでした。その上、自らに与えられる使命を聞いてからは、とてもできないと判断するばかりです。投げた杖が蛇になる、懐に入れた手が皮膚病で雪のようになる、そのような奇跡を見ても、それで人々が付いてくるとは思えません。

モーセは、自分が話すのが苦手と言い訳をします。指導者にはふさわしくないと伝えるのです。しかし、神が人をクリスチャンとした召す基準も指導者として召す基準もこの世のものとは異なります。「神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。」(Ⅰコリント1・27)

つまり、神は、自信満々の若いモーセではなく、自分の弱さ・罪深さを恥じながら、愚かな羊の世話をこなしていく老いたモーセを指導者として選んだのです。

バプテスマのヨハネはイエス様を「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ1・29)と言いました。なぜ、イエス様のことを愚かな羊に比喩するのかわかりませんでした。羊と言えば、羊毛を取ることを肉にして食べるだけの生産価値しかありません。

出エジプトの時に子羊の血を門に塗り、その肉を食べました。また、毎日祭壇に子羊が献げられました。黙示録22章には、「神と子羊の御座が都の中央にあり」(3)とあります。父なる神の全能さと主権があるからこそ、御子は従順な子羊として示されるわけです。

「モーセは、・・・神の家全体の中でしもべとして忠実でした。しかし、キリストは、御子として神の家を治めることに忠実でした。」(へブル3・5、6)。つまり、イエス様でさえ、父なる神に忠実であることが大事であり、モーセも忠実になることによって指導者の働きを為しえたのです。今日の16節で言われたことは、アロンはモーセの代弁者であり、モーセは神の代りに語る人であるということです。それは、神が全てを成し遂げる方であり、私たちは神に忠実であれば良いということです。

罪や恐れや誘惑に惑わされることなく、神の言葉に忠実であることが大事なのです。自分や人々の思惑に捕われると、神に忠実であることができなくなってしまいます。神は時間を掛けて、神に従うモーセを育て上げたのです。

出エジプト記4章10節~17節

  • 4:10 モーセは【主】に言った。「ああ、わが主よ、私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」
  • 4:11 【主】は彼に言われた。「人に口をつけたのはだれか。だれが口をきけなくし、耳をふさぎ、目を開け、また閉ざすのか。それは、わたし、【主】ではないか。
  • 4:12 今、行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたが語るべきことを教える。」
  • 4:13 すると彼は言った。「ああ、わが主よ、どうかほかの人を遣わしてください。」
  • 4:14 すると、【主】の怒りがモーセに向かって燃え上がり、こう言われた。「あなたの兄、レビ人アロンがいるではないか。わたしは彼が雄弁であることをよく知っている。見よ、彼はあなたに会いに出て来ている。あなたに会えば、心から喜ぶだろう。
  • 4:15 彼に語り、彼の口にことばを置け。わたしはあなたの口とともにあり、また彼の口とともにあって、あなたがたがなすべきことを教える。
  • 4:16 彼があなたに代わって民に語る。彼があなたにとって口となり、あなたは彼にとって神の代わりとなる。
  • 4:17 また、あなたはこの杖を手に取り、これでしるしを行わなければならない。」