「生ける水の川が流れ出る。」 ヨハネ7章37~46節
ヨハネ4章にあるサマリヤの女性に話しかけるイエス様の配慮と愛は麗しいものです。「主はその御目をもって全地を隅々まで見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力を現してくださるのです。」(Ⅱ歴代誌16・9)とあるように、この女性の嘆き、訴え、神への切望を聞いてくださったのです。
5人の夫から離縁され、或は死に別れ、6人目の男性は同棲ということでしょうか。何度も結婚するということは女性としては魅力的だったのでしょうが、離縁或は死別ということは不運・不幸です。その上、現在一緒に暮らしている男性からは虐げられている様子です。同性からも、町の人からも差別され、人の来ない真昼に水を汲みに来ます。サマリヤ人から相手にされないのに、ユダヤ人から「水を飲ませてください。」(ヨハネ4・7)と頼まれて驚きます。汚れているとユダヤ人から差別されているサマリヤ人なのです。差別され、侮辱され、虐げられて生きているこの女性に、まともに話しかける人はいなかったのです。
イエス様は、「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」(4・10)と語ります。
① 神の賜物
② イエス様がどういう方なのか。
③ 生ける水
「神の賜物」とは、神の祝福であり、プレゼントです。この女性が真摯に神を求めて暮らしてきた褒美であり、神は差別されないことの印です。多くの人が、「私などに、わたしなんて」と、褒められることや、愛されることを予想していません。しかし、神は賜物をくださろうとしているのです。
「イエス様」は神の子で最も高い存在なのに、わざわざサマリヤの女性の神への訴えを聞いて訪れてくださる愛情に富んだお方です。この方に語り掛けられたのです。
「生ける水」は、「その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(14)。
彼女は、神への疑問を持っていました。彼女は、サマリヤ人なので、エルサレムの神殿に行くことはできません。ゲリジム山で礼拝を献げていましたが、ユダヤ人は、それは正しい礼拝所ではないと否定しています。でも、彼女は、神に真摯に祈り、神の律法を守ろうとしているのに、不幸になるばかりで、それは自分が間違っているからなのかと問うのです。
イエス様は、「神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」(24)と答えます。「父は、そのような(礼拝する)人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。」(23)。
今日の聖句は、「イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。』」(37)というイエス様の叫びです。イエス様は、仮庵の祭りという、エジプトから逃れたことを覚えて神に感謝する祭りの形骸化を嘆いて叫ぶのです。真摯な信仰がなくなっていることを警告するのです。
「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」(38)と叫ばれるように、「自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。」(39)
生ける水の川が信者の心の奥底から流れ出る聖霊の激しい働きを体験するには、聖霊のバプテスマが必要です。しかし、たとえ、聖霊のバプテスマを一度受けても、信仰を形骸化すれば、生ける水の川は流れ出しません。
先週は「聖霊に満たされる」ことは、平凡かつ誠実な「みことばに従い、良き行いをする中で御霊の実を実らせていくことである」とお話ししました。しかし、満たされて、流れ出し、人々に感化を与えていくことは、「生ける水の川が流れ出る」ことであり、もっとダイナミックなことです。
祈りの時間のアンケートを取っていますが、数分というのはともかく短すぎます。ひざまずき、目をつぶって祈る時間のことなのでしょうか。私は、目を開け、仕事をしながら、歩きながら、運転をしながら異言で祈っています。異言の祈りは、水槽の泡のようで、泡が出ないと酸欠状態になり、魚は死んでしまいます。異言の祈りが足りないと、私は平安がなくなり、イライラし、知恵が足りなくなります。そして、思考が内向きになり、いのちにあふれた行動ができなくなります。聖書は、「絶えず祈りなさい。」(Ⅰテサロニケ5・17)と言っています。
ヨハネ7章37~46節
- 7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
- 7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」
- 7:39 イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。
- 7:40 このことばを聞いて、群衆の中には、「この方は、確かにあの預言者だ」と言う人たちがいた。
- 7:41 別の人たちは「この方はキリストだ」と言った。しかし、このように言う人たちもいた。「キリストはガリラヤから出るだろうか。
- 7:42 キリストはダビデの子孫から、ダビデがいた村、ベツレヘムから出ると、聖書は言っているではないか。」
- 7:43 こうして、イエスのことで群衆の間に分裂が生じた。
- 7:44 彼らの中にはイエスを捕らえたいと思う人たちもいたが、だれもイエスに手をかける者はいなかった。
- 7:45 さて、祭司長たちとパリサイ人たちは、下役たちが自分たちのところに戻って来たとき、彼らに言った。「なぜあの人を連れて来なかったのか。」
- 7:46 下役たちは答えた。「これまで、あの人のように話した人はいませんでした。」
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