「キリストはよみがえりです。」 ヨハネ11章3-6、23-27、39-40節

 よみがえりとは、普通、蘇りと書きますが、『黄泉がえり』という映画もあったようです。黄泉とは古事記、日本書紀などにあり、日本神話で死者の世界のことを言います。漢字での黄泉は、中国で死者の世界を意味しています。旧約聖書のシェオル(ヘブライ語)、新約聖書のハデス(ギリシャ語)を漢文訳で黄泉と訳し、口語訳聖書では黄泉、新共同訳では陰府(ヨミ)、新改訳聖書ではハデスと訳しています。ギリシャ語のゲヘナは、口語訳と新共同訳では地獄、新改訳ではゲヘナと訳されています。

 ゲヘナについて、イエス様は何度も警告されています。「もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。」(マタイ5・29)。「たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10・28)。「おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。」(マタイ23・33)。「殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。」(ルカ12・5)

 ハデスについては、「その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。」(ルカ16・23)とあるように、死んだ後に苦しむ所ですが、そこからアブラハムらの義人のいる場所もあるとイエス様が言われています。「ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。」(ルカ16・25-26)とあり、義人が報われる所と悪人が苦しむ所の間には大きな淵があることがわかります。

 ペテロは、「それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない』と語ったのです。」(使徒2・31)とイエス様も死後にハデスに行かれたことを示し、しかし、そのままではなかったことを語ります。それが、よみがえりです。

 「『高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。』この『上られた』ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。」(エペソ4・8-9)とあり、キリストが死んだ後、ハデスに行き、ハデスにいた義人たちを連れ、パラダイスへ行くのです。ですから、ハデスにあった義人の場所、通称アブラハムの懐と言われていた所はなくなるのです。「あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネ14・2-3)。

 ですから、隣りで十字架に掛けられていた犯罪人が「「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」(ルカ23・42)と願った時、 イエス様は「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(23・43)と、彼に言われたのです。

 パウロは、リステラで反対する「ユダヤ人たちが来て、群衆を抱き込み、パウロを石打ちにし、死んだものと思って、町の外に引きずり出した。しかし、弟子たちがパウロを取り囲んでいると、彼は立ち上がって町に入って行った。」使徒14・19.20)。パウロはここで確かに死んでいるのです。Ⅱコリント12・4で「パラダイスに引き上げられて」と語り、「その啓示があまりにもすばらしいために」(12・6)、「弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。」(12・10)と語るのです。

 このようにラザロは確かにハデスに行ったのです。そして、「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」(39)という肉体の死から、よみがえったのです。もし、死んで直ぐに癒されたのならば、癒しと言われます。しかし、ラザロは癒されたのではなく、よみがえらされたのです。おそらく、パウロも、「立ち上がって」という時、死んだのによみがえって、何が何だかわからずに伝道を続けたのでしょう。後で、冷静になって、それがパラダイスだったことを悟ったのだと思います。パウロは、死後にパラダイスを体験してよみがえったので、あれだけの命がけの伝道をしたのでしょう。

 「マルタはイエスに言った。『私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。』」(24)。しかし、死んだ後の天国信仰は、どの宗教でも持っています。語るだけならば、誰でもできます。癒しも、本当に死んだのかどうか、疑う人もいます。しかし、イエス様は、この信仰が死に打ち勝ち、身体をもってよみがえり、永遠のいのちに繋がることを示されたのです。殆どの人は、死んだら天国に行ければ良いと考えるけれど、それを信じ求めて命がけに生きることを愚か者と考えます。そういう人を、神は受け入れず、神の国に迎えることをしないと示されているのです。

ヨハネ11章3-6、23-27、39-40節

  • 11:3 そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」
  • 11:4 イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」
  • 11:5 イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。
  • 11:6 そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。
  • 11:23 イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」
  • 11:24 マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」
  • 11:25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
  • 11:26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
  • 11:27 彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」
  • 11:39 イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」
  • 11:40 イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」