「神であるイエス様。」 ヨハネ福音書1章1節~18節 

平気で嘘を言う人がおり、自分のした過ちや愚かさを言い訳する人がいます。イサクがヤコブを祝福した後、兄のエサウが来て「私を祝福して下さい。」(創世記27・34)と願いますが、イサクは語った祝福のことばはもう残っていないと否定します。言い訳のことばを言うと、そのことばは罪として定着してしまいます。過ちや罪を正当化するからです。その時に、必ず悔い改めてください。そうすれば赦されますが、罪の生活をしている人は、それができないのです。その咎は、呪いとしてその人の人生に付きまといます。また、「人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。」(マタイ6・15)とあるように、人を責めることばを発してはなりません。全体として悔い改めれば、それで赦されるのではないかと思う人がいますが、安易に長子の権利を譲ったエサウは祝福を失ったのです(創世記25・34)。口約束も法的な効力を持つ、契約なのです。

 天地創造の時、神の子は「ことば」(1)として表現されます。「ことば」は、神そのものであり、神の理性であり、その「ことば」が発せられると「すべてのものは、この方によって造られた。」(3)。宇宙の最初について科学的には説明ができません。「エネルギー不変の法則」という法則があり、無から有ができるということはないのです。宇宙の生成は神にしかできないことなのです。

 神が「光、あれ。」(創世記1・3)と宣言される前に、神の子が光であり、「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」(5)。

 宇宙の途方もない広さを知って、地球の小ささと人間のはかなさを思う人もいるかもしれません。しかし、神が天地を創造される時に、その宇宙の端を造ってしまったら、おもちゃのようではありませんか。神にとって限りない宇宙を造られることは造作もないことなのです。

 そして、神は、人を造りました。神の存在を認めず、論理的な追及を繰り広げる科学では、世界の始めだけでなく、生物の誕生も、人間の誕生も説明できません。地球だけの論理で説明できないので、他の星から来たタンパク質とか、微生物が地球で変化進化したともされていますが、それにしても最初が説明できないのです。つまり、いのちは自然からは造られないのです。

 ミトコンドリアは細胞の活動エネルギーを作り出すものですが、ミトコンドリアは母系遺伝をするので、現在わかっていることは、人類の先祖は一人の女性から始まっているということです。彼女をミトコンドリア・イブと呼んでいます。まさにエバでしょう。「彼女が生きるもの全ての母だからであった。」(創世記3・20)。
 人は罪を犯し、苦しんで生きるようになり、争いと憎しみの中で年月が過ぎていきます。そして、「すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。」(9)。」なぜ、そんなにイエス・キリストが来られるのに時間が掛かったのでしょう。

① 信仰の民、ユダヤ人を育て上げるのに時間が必要だった。

② 歴史の中にキリストが現れるお膳立てをしていた。

③ 言語が統一されてきて世界宣教ができるようになった。

④ 悪がはびこり、「神は彼を試みて、その心にあることすべてを知ろうとして、彼を捨て置かれた。」(Ⅱ歴代誌32・31)

だから、「この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。」(11)は当然なことなのです。

 「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」(12)。つまり、救われる民は少ないのです。そして、それは選ばれた民なのです。「この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」(13)

 クリスチャンになる人が少なく、洗礼を受けたとしても信仰から離れる人がいるのはしょうがないことです。しっかりと悔い改め、信仰生活を保てない人は、神が教会から離れさせるのです。説明したように、神がおられなくて世界は創造されず、いのちも人も起こりえないのですが、罪人は、神を信じない理由を科学や個人的な理由で主張するのです。それが神に通じるはずがありません。日本人の言い訳好きは、神を信じずに不信仰に生きる正当化になっていますが、それは愚か者のすることです。神は私たちを試みて、言い訳しようがない状態に追い込み、私たちを裁かれるのです。

 しかし、信仰を持ち続ける私たちは、「この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。」(16)ことになるのです。信仰を離れた人々は、悔い改めることができなくなった人々です。もはや状況が悪くなっても、自分を正当化し、滅びの道を歩んでいくのです。むろん、私は執り成しの祈りを続けていますが、信仰の道に戻る人はほとんどおりません。神の選びをなおざりにした罰は大きいのです。

ヨハネ福音書1章1節~18節

  • 1:1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
  • 1:2 この方は、初めに神とともにおられた。
  • 1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。
  • 1:4 この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。
  • 1:5 光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。
  • 1:9 すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。
  • 1:10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
  • 1:11 この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。
  • 1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。
  • 1:13 この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
  • 1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
  • 1:16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。
  • 1:17 律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。
  • 1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。