「人はパンだけで生きるのではない。」 ヨハネ福音書21章2~13節

辞書を引くと、職業の英訳はJob(一般)、occupation(業務、時間の費やし方)、Calling(天職、神の召し)、Vocation(副業、余技、趣味)、Profession(医師、弁護士などの専門職、Trade(商業、商い)などがあります。職業選択について、たとえ家業があろうと、農地や地位があろうと、本人が迷いながら選ぶものです。職業選択について、収入が良い、社会的地位が高い、親の仕事を継ぐ、わからないけれどともかく会社務めをしようとする人もおり、最近は芸能界やスポーツを志す人も多いようです。

信仰がなく、神の召しを考えなければ、人は高収入、安定した地位、得意分野、などを職業選択の要素と考えます。そして、それらを得られない場合には、自らを敗者として捉え、挫折した気持ちを持つこともあります。人を使い、指導することを上位、優位と考えるのです。

ところが、イエス様は「あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。」(マタイ23・11)と言われました。こういう考え方は、人の世ではありえません。クリスチャンといっても、人を優劣で見たり、職業の卑賎を考えたりする人には、わからないでしょう。何度も伝えていますが、人の世の論理や意思で物事を判断すると神の国の奥義はわからないものです。

「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」(マタイ4・4)とイエス様は言われました。

イエス様の時代は、ローマの世界支配により安定した時代となっており、経済的にも社会的にも飢え乾くことはなくなっておりました。歴史上、飢餓は繰り返しておこり、戦争や災害によって食べることが困難な時代はありました。その時代にも、豊かな時代にも、「パンだけで生きる」ことしか考えない人もおり、「神の口から出る一つ一つのことばで生きる」、つまり人生の意味を模索して自らの生き方を吟味する人もおります。

牧師でも、信者でも、成功者になろうとする人は多く、私には、それがこの世の誘惑に染まっている姿のように思われます。聖霊に満たされ、神の国のことを考えれば、それは罠のような気がするからです。信仰者が、「パンで生きる」ことのみを考え、神にある生き方を考えなければ、それは神にある「いのち」の宿っていない人生となります。イエス様は、「仕える人」になれと言われました。それは、自分の成功や立身出世を求めない生き方です。自己中心では、神の国への道を歩めないのです。

今日の聖句の弟子たちは、イエス様に従い、立身出世を願っていたのです。しかし、自らの不信仰、浅はかさ、愚かさを思い知らされ、慣れ親しんだ漁師の歩みをするしかないと考えたのでしょう。うまく行かないと辞める、仕事を変える、そういう人々と同じです。

「あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。」(Ⅰコリント12・27)とあり、「からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。」(同22)とあります。自分を強く見せようとしたり、失敗や弱さを隠すのは、神のからだとしての教会を受け入れていないのです。

他の教会の主管者を終える引継ぎに「牧師という勤めは、成果を期待せず、黙々と主に従い続けるというものです。」と伝えました。思い通りにいかないと腹を立てる人は、神の導きを信じていないのです。

弟子たちは、自分には価値がないと悟ったのです。実は、自分の価値と存在を神に委ねることは、神に従うということは、そこから始まるのです。弟子たちは、得意の漁でも全く成果が上がりませんでした。「子どもたちよ、食べる魚がありませんね。」(5)。イエス様は、叱ることなく、あなたがたの使命、召しは漁師ではない、通常考える職業ではない、と伝えたのです。

イエス様の指示された舟の右側に網を打つと、おびただしい魚が取れました。驚き呆れ、その大漁に感動すると、その指示をしたのがイエス様であることに気が付きました。失望と挫折の中にあると、イエス様が見えないのです。

イエス様は、「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(ヨハネ6・35)と言われました。

神に従うということは、自分への挫折から始まります。勝手な判断でい仕事をしたら、「仕える人」ではありません。私も献身してから43年が経ちました。思い通りにならないこと、自分の成功を願わないこと、受けるよりも与えるほうが幸いであること、それらが少しずつ身についてきました。毎日パンを食べながら、「神の口から出る一つ一つのことばで生きる」ことを味わっております。ペテロに「わたしに従いなさい。」(ヨハネ21・19)と言われた主は、私にも語り掛けてくださったのです。

ヨハネ福音書21章2~13節

  • 21:2 シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、そして、ほかに二人の弟子が同じところにいた。
  • 21:3 シモン・ペテロが彼らに「私は漁に行く」と言った。すると、彼らは「私たちも一緒に行く」と言った。彼らは出て行って、小舟に乗り込んだが、その夜は何も捕れなかった。
  • 21:4 夜が明け始めていたころ、イエスは岸辺に立たれた。けれども弟子たちには、イエスであることが分からなかった。
  • 21:5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ、食べる魚がありませんね。」彼らは答えた。「ありません。」
  • 21:6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。」そこで、彼らは網を打った。すると、おびただしい数の魚のために、もはや彼らには網を引き上げることができなかった。
  • 21:7 それで、イエスが愛されたあの弟子が、ペテロに「主だ」と言った。シモン・ペテロは「主だ」と聞くと、裸に近かったので上着をまとい、湖に飛び込んだ。
  • 21:8 一方、ほかの弟子たちは、魚の入った網を引いて小舟で戻って行った。陸地から遠くなく、二百ペキスほどの距離だったからである。
  • 21:9 こうして彼らが陸地に上がると、そこには炭火がおこされていて、その上には魚があり、またパンがあるのが見えた。
  • 21:10 イエスは彼らに「今捕った魚を何匹か持って来なさい」と言われた。
  • 21:11 シモン・ペテロは舟に乗って、網を陸地に引き上げた。網は百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったのに、網は破れていなかった。
  • 21:12 イエスは彼らに言われた。「さあ、朝の食事をしなさい。」弟子たちは、主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねはしなかった。
  • 21:13 イエスは来てパンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。