「奇跡の日々!」ヨハネ福音書20章21~31節
主がよみがえられたということは、決して霊的な存在としてではありません。触ることができ、食べることができる現実の肉体をもってよみがえられたのです。だからトマスに、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(27)と言われたのです。確かに十字架に掛かって死なれた方が、肉体をもって目の前におられるのですから、通常の感覚から離れた異常なこと、奇跡の日々を過ごすことなのです。
多くの人が「神を信じている。」と言いますが、それは神が備えられた信仰心という人間特有の思いがあるから信じているのであって、魂が救われているわけではありません。それにはどのような信仰姿勢があるでしょうか。
① 自らの関心、知識、教養、社会的信用の為の信仰
② 権力や金銭などの利益と結びつく信仰
③ 精神や神経の弱さを補おうとして持つ信仰
④ 習慣、家の伝統、地域信仰による信仰
神は、そのような信仰を認めません。つまり、そのような形だけの信仰者を天国の民として迎え入れることはないのです。そのような信仰者に対する「信仰のふるい」はどのようなものでしょうか。
① 神を信じても願うとおりにならないので失望
② 周りの人との人間関係に失望
③ 誘惑や欲望に囚われて堕落
④ 利害や誘いによって宗旨や教会を変える
⑤ 元々、信仰が腰かけ程度だった
弟子たちは確かに、イエス様を否定して逃げたのですが、その後、多くの弟子が殉教までして従う真摯な信仰者になっています。しかし、実際には、イエス様が語り掛け、訪れなかった弟子たちもいると思います。ユダのように、自分の思い通りにイエス様が動かないので批判的な思いになり、金銭で裏切るような人もおりました。
ともかく、今日、皆さんに語るべきことは、神の導きと教え、そして助けなしにしっかりとして信仰者になる人などはいない、ということです。
使徒となった人々も、ペテロをはじめ、イエス様が捕らえられた時に、自分の保身を考え、神の守りや導きを信じもせずに、イエス様を否定して逃げ出したという生涯に亘る恥ずべき行動を取っています。
その恥と罪深さを持った弟子たちに、イエス様はよみがえり、身近に教えられたのです。その教えも奇跡も、弟子たちには十字架前のこととは全く違って捉えられました。以前は、自分たちがイエス様の弟子として人々に教えて偉くなろう、自分の存在価値を高めようという自己尊厳の欲のためでした。
実際、現代の教会でも自分の働きと業績を誇ろうとする人々はおります。それは人間の欲ですから、なくすことはできません。しかし、信仰生活を真摯に生きるならば、自分の罪深さ、愚かさ、未熟さ、などを聖霊によって示され、次第に謙遜になっていくのです。つまり、先に挙げたような「信仰のふるい」というものは、どの信仰者にもありうるのです。しかし、その「信仰のふるい」に際して、罪を悔い改めて謙遜になっていくかどうかで自らの道を決めるのです。
私は、この頃のイエス様と共に歩む弟子たちのことを、しばしば想像します。何をしても、自分の愚かさと罪深さを覚えて悩むはずです。ところが、イエス様は温かく彼らを励まし、「ほかにも多くのしるしを行われた」(30)のです。そして、「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」(31)。
「ふるいにかける」のは、「条件・基準に合わないものを除外する。」ためですが、その決定権は神ではなく、私たち自身です。残念なことに、信仰が躓いた人は、自ら悔い改めるということは殆どありません。そして、自らまさに「墓穴を掘る」というような人生を歩み、崩壊しています。
救われて汚れた霊が去った人が、きちんとした信仰生活を歩まないと「他の霊を連れて来て、入り込んでそこに住みつきます。そうなると、その人の最後の状態は初めよりも悪くなるのです。」(マタイ12・45)ということが、信仰を離れた人々に起こるのです。
私には、エマオへの途上に現れたイエス様は、現代でも多くの人に語り掛けているような気がします。しかし、彼らは、この世のことに思い煩い、「暗い顔をして」(ルカ24・17)、イエス様の語り掛けに気が付かないのです。コロナやウクライナ、そして災害に心を囚われてはいけません。「信じて、イエスの名によっていのちを得る」ことが大事です。
ヨハネ福音書20章21~31節
- 20:21 イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
- 20:22 こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
- 20:23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」
- 20:24 十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
- 20:25 そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。
- 20:26 八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。
- 20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
- 20:28 トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。」
- 20:29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」
- 20:30 イエスは弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない。
- 20:31 これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。
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