「渇いている者への呼び掛け。」 ヨハネ7章37~39節

仮庵の祭りは、第7の月の15日、現代では10月15日頃に行われる三大祭りの一つです。その時には、自分の家を離れて仮小屋に8日間住みます。この仮小屋は、祭りの為に枝や葉で造られ、屋根は隙間から星が見えるように作り、エジプトから脱出した荒野の旅を思い出し、子孫に伝える為のものでした。また、それは収穫感謝祭でもありました。全焼の献げ物、罪のきよめの献げ物、などは、自分たちの生存と働きが神によるものであると告白するものでした。そして、レビ記23章にある収穫の枝を振りながら主の前で喜ぶのでした。

また、一人の祭司がシロアムの池から水差しに水を満たして泉の門を通る時に「あなたがたは喜びながら水を汲む。救いの泉から。」(イザヤ12・3)と唱えたとのことです。さらに、詩篇113篇から118篇を聖歌隊が讃美しながら、水差しを神殿まで運び、祭壇に注ぐのですが、118篇になると「主に感謝せよ。」と一同で歌い、なつめやしを振るのだそうです。

それは、「水に渇いた。」(出エジプト17・3)民が、不満を言った時に、ホレブの岩から水が湧いたことを記念した行事でもあったようです。

ユダヤの民にとって、信仰は民族存亡の鍵であり、そのことを忘れないようにし、子孫にも伝えようとして祭りや儀式を熱心に保とうとします。レビ記を見れば、その安息日には決して働いてはいけない「いかなる労働もしてはならない。」(レビ23・8)と、命懸けの課題を守るのです。それは、「働かなければ食べていけない。」として収入を得ることを優先する現代人、特に日本人とは決して相容れない宗教的課題です。かれらにとって、「戒めを守らなければ生きていけない。」と歴史から民族的に身に着けたのです。パリサイ人や律法学者が、律法的過ぎると現代クリスチャンは言いますが、それは、神の目を自らの目として捉える傲慢さでもあります。彼らは、そのようにして民族を守ってきたのです。

「極端はいけない。」「頑固はいけない。」「優しさが大事。」などと言われます。しかし、信仰というものは、頑固でなければ貫けません。そして、頑固に神を信じるからこそ、魂の飢え渇きがあるのです。妥協して生きる人間が信仰と現実生活との狭間で苦しむことはないのです。

「祭りの終わりの大いなる日に」、人々は、楽しいお祭りに喜び、終わろうとしている充実感を感じていました。しかし、一部の者は、信仰生活の形骸化に虚しさを覚えていました。私自身は、毎日の生活で聖霊の具体的導きと奇跡がなければ、信仰生活は形骸化してしまっているでしょう。私の魂はいつも神に対する「飢え渇き」があります。

「イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。』」。ここを読んだ時、私に向かって叫ばれているような気がしました。

家族の為、教会員の為、自分の果たすべき使命、いつも「これで良いのか」、「神の導きを聞いているのか」と葛藤しています。普通の牧師は信仰生活を守り、教会員を教え、なすべきことを果たしていますが、私はそれだけではダメなのです。私には自らの人生において果たすべき使命の「飢え渇き」があります。過去の信仰と、聖書的な生き方では、この「飢え渇き」は満たされないのです。

「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」水は流れないと腐ります。溜めて置いたらダメなのです。聖霊は水です。この水は、川のように流れなければ、聖霊に満たされて行動しなければ、涸れてしまうのです。

この教会も祝福され、良い教会になってきました。私も歳を取ってきました。ところが、祈ると、また新たな思いと願いが湧き出てきます。尊敬する先生と話したら、「引退とか引継ぎとか考えない。自分の働きを余人ができるはずがない。柏崎先生もそうでしょう。」と言われました。せっかく、良い教会員とその賜物が集まり、経験と知恵も積んできて、神の御霊に導かれることを身に着けてきたのですから、ここで流れを止めてはいけません。

「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは、新しい創造です。」(ガラテヤ6・15)。この命にみなぎる「生ける水が流れ出る」ような信仰生活を送ろうではありませんか。

これからが、この教会の働きどころです。現在の皆さんは、収穫感謝の祭りを踊りながら、祝福の生ける水を飲み、それを心の底から流れ出していくことを体験していくのです。

ヨハネ7章37~39節

  • 7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
  • 7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」
  • 7:39 イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。

  • レビ
  • 23:39 特に、あなたがたがその土地の収穫をし終える第七の月の十五日には、七日間にわたる【主】の祭りを祝わなければならない。最初の日は全き休みの日であり、八日目も全き休みの日である。
  • 23:40 最初の日に、あなたがたは自分たちのために、美しい木の実、なつめ椰子の葉と茂った木の大枝、また川辺の柳を取り、七日間、あなたがたの神、【主】の前で喜び楽しむ。