「キリストは教会の花婿です。」 エペソ5章21~33節

 キリストが夫であり、教会が妻であると言われて、何のことかとわからない人は多いでしょう。22節を引用して、「妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい」という男性牧師が多いのですが、私はそういうことを言う男性たちが亭主関白であることが、聖書的ではないと感じています。そう言われた妻たちが、「自分の妻を自分と同様に愛しなさい。」(33)を実践してくれたら従うけれど、と言い返すと、従うことが先だ、というやりとりの夫婦では、愛し合っているはずがありませんが、この世の基準では、仲が良いと思っているのが不思議です。

1.教会がキリストの花嫁とはどういうことでしょうか。

「神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」(エペソ1・4)。神は、キリストの花嫁になる教会を構成する私たち、一人ひとりを既に選んでおられたのです。しかし、それは無条件の選びではなく、「人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。」(エペソ4・22-25)。というように、聖められなければ身体の構成部分とはならないのです。

 イサクとリベカの結婚までの経緯には、両親の息子への愛と親に忠実なイサクの誠実さ、そして、神のご配慮と導きを知らされます。二人とも、大層な試練、苦難、迫害の中で、信仰者として歩み、そして結婚し、神の栄光を現わしました。「選ばれたのだから、間違いなく天国にいく。」と考える人がいますが、選びの証明は、その人がどんな試練でも神に従い、自らを聖めていくことによって為されていくのです。教会に来ているから、救われたから、癒されたから、自分は神の子として選ばれたのだ、と考えたら間違いです。

 花嫁の条件は、花婿に会うことを願い、迎える準備をしていることです。この世のことに関心があり、欲望に囚われているのでは、花婿を迎えることをしていないのです。

 2.キリストが教会の花婿とはどういうことでしょうか。

 父なる神が、キリストの花嫁として教会を選んだということです。私たちは、結婚が個人の思い、親の思い、縁談、利害、などの理由で為されていることを知っていますが、実は神の御許しがいるのです。生まれた子には、全て霊があります。赤ん坊が産声を上げる時に、人間としての霊が誕生するという説もあります。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。」(創世記2・7新共同訳)。生まれた子が全て神の御手の内にあるならば、すべての結婚も神の御手のうちにあります。それを壊すのは、当事者である人間です。人は、そのように神の御手の中にあるのに、自分勝手に生きるのです。それでは、人が生まれなければ良いと思うかもしれませんが、人は自由意志で生き、自分で罪を犯し、稀に悔い改めるのです。生まれた霊が死ぬことがないので、神は慈愛をもって、人間を赦し、見守り、祝されるのです。しかし、義なる神は、罪を犯す者を裁かないでいることはできないのです。

 「キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられた」(5・25)のは、神の御心に従ったからです。人は、なぜ、そのようにして自分が愛されるのか、と疑うでしょう。自己中心な人間には、そのような愛はわかりません。

 私自身の結婚の時、花嫁は重度のうつ病で大学を卒業できず、身体も弱く消化不良で、何もできない状態でした。普通の夫ならば仕事をするばかりですから、料理も家事もできない娘の結婚を親が反対するのも当然です。私自身、大学の教員は無理だと諦め、公認会計士も仕事に集中しなければならないので、牧師の召しが語られた時に、神学校に生きながらならば、妻の世話ができると考えたものです。それほどの状態でも結婚をしたのは、神がこの結婚を明確に示した以外にありません。人は、神が明らかに示したことを逆らうことはできないと、聖書に書いてあったからです。

 通学、買い物、家事をこなし、妻のカウンセリングを2時間ほどして過労で5月には全身の蕁麻疹、9月には不整脈が起こりました。うまくいかないで、相変わらず、うつの妻に暴言を吐き、神に文句を言い続けて、不整脈で動けない自分を嘆いて2時間くらいして、神に助けを乞いました。そして、「あなたは信じていない。あなたの信じる信仰によって、わたしは栄光を現わす。」という声を聴いたのでした。悔い改めると身体中が熱き聖霊に満たされ、妻の祝福を祈ると、21日間の切迫流産の妻と私自身が瞬間的に癒されました。そして、長男が生まれたのです。長男を生むために、妻も私も命を懸けたのですが、神は聴いてくださいました。薬を飲んでいたら、長男は生まれていません。私たちに信仰を教えてくれたので、主の人、主人と名付けました。

 キリストが教会を愛し、いのちを献げたのは、神の御旨だからです。神のみ旨であると受け入れたら、信仰者もいのちを献げることができるのです。

エペソ5章21~33節

  • 5:21 キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。
  • 5:22 妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。
  • 5:23 なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。
  • 5:24 教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。
  • 5:25夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。
  • 5:26 キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
  • 5:27 ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。
  • 5:28 そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。
  • 5:29 だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。
  • 5:30 私たちはキリストのからだの部分だからです。
  • 5:31 「それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。」
  • 5:32 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。
  • 5:33 それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。