「イチジクの木の下で。」ヨハネ福音書1章43~51節

今日はお花見会をします。桜は日本古来のもので、古今集(905年)には「見わたせば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりけり」、源氏物語(1008年)にも「桜の、花びら大きに、葉の色濃きが、枝細くして咲きたる。」、と詠われています。桜の花の美しさが、これから始まる暖かな春と農耕の喜びを現わしていたと思われます。

イチジクは、メソポタミアで6千年前から栽培されていました。「善悪の知識の木」の実を食べたアダムとエバは、「いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちのために腰の覆いを作った。」(創世記3・7)とあり、聖書に初めて出てくる植物名です。実はタンパク質を含めて栄養が豊富なために貴重な保存食料となります。聖書には66回出てきますが、モーセに率いられて荒野生活を過ごした時に、「ここは穀物も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも育つような所ではない。」(民数記20・5)と不満を言うような主要な食料源だったことがわかります。

ギデオンの死後、その子たちが支配することを拒んでアビメレクを王とした時、ギデオンの末子ヨタムが、木々の王としての例話でオリーブ、イチジク、ぶどうを挙げ、いちじくが「私は、私の甘みと良い実を捨て置いて、木々の上にそよぐためにいかなければならないのだろうか。」(士師記9・11)と拒んだことは面白い話です。彼らは茨を王としたと非難したのです。

ダビデの王就任の祝宴には「小麦粉の菓子、干しいちじく、干しぶどう、ぶどう酒、油、牛、羊などがたくさん運ばれた。イスラエルに喜びがあったからである。」(Ⅰ歴代12・40)とあり、「ユダとイスラエルは、ソロモンの治世中、ダンからベエル・シェバまで、みな、おのおの自分のぶどうの木の下や、いちじくの木の下で安心して住むことができた。」(Ⅰ列王4・25)と、ぶどうの木やいちじくの木の下で過ごすことが平和の象徴としてイスラエルの人々には感じられたのです。ですから番人がいたのです。「いちじくの木の番人はその実を食う。主人の身を守る者は誉を得る。」(箴言27・18)。これは、いちじくの木に例えられるイスラエルの国を守る例えかもしれません。

現在のイスラエルの国樹はオリーブですが、葡萄と共にイチジクは平和と繁栄の象徴とされてきたのです。「その日には、あなたがたは互いに自分の友を、ぶどうの木の下といちじくの木の下に招き合うであろう。」(ゼカリヤ3・10)と、主が支配される時の平和の情景を語っています。それで、私も庭に、この3種類の樹を植えて、平和と繁栄、そして神の国を待ち望んでいるのです。シーソーの傍のベンチには、イチジクの木を植えました。

ナタナエルは、このイチジクの木の下で、祖国のことを想い、救い主、そして来るべき王のことを求めて祈っていたのではないでしょうか。「見なさい。まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません。」と誉められるイエス様にナタナエルは質問します。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは答えられた「あなたがいちじくの木の下にいるのを見ました。」(48)とは、その祈りを聞いておられたことを示しています。

私たちの祈りは、自分のことであってはなりません。「自分のことで心配するのはやめなさい。」(マタイ6・25)と言われています。「父の御心を行う者が天の御国に入るのです。」(マタイ7・21)。ですから、ナタナエルは、祖国の為に何をしたら良いのかと、自らの人生を掛けて神に問うていたのです。復活の主に出会った後、ガリラヤ湖に集まっていたペテロやヨハネたち7人の中にナタナエルはおりました(ヨハネ21・2)。この後、忠実にイエス様に従っていったのでしょう。

桜を愛でる日本と、実のなるイチジクや葡萄、そしてオリーブを愛するイスラエルの違いは、日本の自然の豊かさ、平穏さです。ウクライナ侵略をしているロシアを充分に痛めつけられないのは、ロシアからの原油やガスに寒い国々が依存しているからです。寒冷地では、暖房がなければ、働かなければ簡単に死んでしまいます。日本は、寒ければ燃やす薪があります。冬が過ぎれば、豊かな収穫が望めます。

オリーブの実は油で出来ているので乾燥に強く、葡萄も乾燥地でも育ち、イチジクは受粉が要らないので良く実ります。日本のような豊かな国では、決して主要な作物にはなりません。

神を求めなくても生きていける国が日本です。しかし、神に選ばれ、神の国に導かれるのは、そのような日本においても、魂が揺れ動き、救いを求める人々です。

東京大空襲や原爆投下においても、日本人は生き抜いてきました。桜の花のように束の間の人生を綺麗に咲き誇れば良いと考えているのでしょうか。庭には、河津桜も咲いて散りましたが、私には実のならないものは、なにかつまらなく思います。人生は、死んで終わりではないことをキリストに出会い、知りました。多くの日本人は、それを知っていないのです。

ヨハネ福音書1章43~51節

  • 1:43 その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされた。そして、ピリポを見つけて、「わたしに従って来なさい」と言われた。
  • 1:44 彼はベツサイダの人で、アンデレやペテロと同じ町の出身であった。
  • 1:45 ピリポはナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」
  • 1:46 ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何か良いものが出るだろうか。」ピリポは言った。「来て、見なさい。」
  • 1:47 イエスはナタナエルが自分の方に来るのを見て、彼について言われた。「見なさい。まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません。」
  • 1:48 ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは答えられた。「ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見ました。」
  • 1:49 ナタナエルは答えた。「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」
  • 1:50 イエスは答えられた。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったから信じるのですか。それよりも大きなことを、あなたは見ることになります。」
  • 1:51 そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは見ることになります。」