「死の様相と意味合い。」ヨハネ11章17~27、43~45節

イエス様の誕生は、「曙の光が、いと高き所から私たちに訪れ、暗闇と死の陰に住んでいた者たちを照らし」(ルカ1・78.79)と預言されたように、死後に神の国に行けるという希望をもたらしました。しかし、「死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい。」(マタイ8・22)とイエス様が語るように、多くの人々は、肉体は生きていても霊的には神から離れた死んだ者であり、どちらにしても死人であると突き放されます。

そして、「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」(ヨハネ5・24)と救いを語りながらも、全ての人が神の国に行くか地獄に行くかの裁きにあうと宣言されます。

このラザロのよみがえりの事件は、人々が現世重視で、ただ長生きをすることを願っていること、病気や災いを避け或は解決して生きることを願っていることを描写しています。マリヤやマルタでさえも、「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」(21、32)と嘆いています。ここでラザロのよみがえりを見て、「多くの人々がイエスを信じた。」(45)といっても、信仰を確認する歩みをしているわけではなく、イエス様の教えを守っているわけでもない、いわば洗礼前の状態です。信仰としては大事な一歩ですが、神の国に行く保障としての信仰というわけではありません。マリヤやマルタが信仰に熱心であり、イエス様に一心に仕えていたとしても、信仰はまだ初歩的な段階であったことを確認してください。

イエス様の十字架と復活、そして、ペンテコステの出来事後に、弟子たちの信仰は命がけのものに変わっていきました。それまでは、彼らが自分の命を惜しみ、逃げ隠れしていたことからもわかります。ペテロとヨハネは、エルサレムの指導者たちに対して、「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の御前に正しいかどうか、判断してください。」(使徒4・19)と答え、死を恐れず、世の権威を恐れない姿勢を明確にしています。

バルナバ(慰めの子)と呼ばれていたヨセフが、教会の為に畑を売り、信徒たちの支援に供した(使徒4・36.37)のを見て、アナニヤとサッピラの夫婦も、誤魔化しながら献金をします。献金をしたのだから良いではないかと思う人々も多いでしょうが、「人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」(5・4)と糾弾され、直ぐに息が絶え、同じようにしらを切ったサッピラも息絶えます。虚栄と名誉の為にごまかしをして罰を受けたことは、「教会全体と、このことを聞いたすべての人たちに、大きな恐れが生じた。」(11)のでした。信仰が次第に真摯になる過程です。教会を神の支配される聖なるところであることがわからない中途半端な信者が陥るサタンの罠です(3)。

ステパノは、「信仰と聖霊に満ちた人」(使徒6・5)であり、「恵みと力に満ち、人々の間で不思議としるしを行っていた。」(8)のですが、人々の妬みをかって偽証されて「最高法院に」(12)引いて行かれました。しかし、7章に見られる聖霊と信仰に満ちた大演説をして石打の刑で殺されました。その時、ステパノを殺す人々の上着を預かったのが青年サウロです(7・58)。ステパノは、殺されながらも、「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」(60)と執り成しながら死んでいきます。

「サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。」(8・1)。そして、「教会を荒らし、男も女も引きずり出して、牢に入れた。」(3)。そのサウロが、天におられるイエス様の超自然的な介入により、「わたしの選びの器」(9・15)として、「彼がわたしの名の為にどんなに苦しまなければならないか」(16)を経験して大使徒になっていきます。パウロと改名したサウロは、町々で伝道して福音が広がりました。しかし、それに腹を立てたユダヤ人たちがパウロを殺そうとしてつけ狙い、リステラで「生まれつき足が動かず、一度も歩いたことがない」(14・8)を癒すと、町の人の興奮も大きくなり、また攻撃も酷くなって「パウロを石打にした。」(14・19)。その時、確かにパウロは死んで「パラダイスに引き上げられ」(Ⅱコリント12・4)、「その啓示のすばらしさのため高慢にならないように、私は肉体に一つのとげを与えられました。」(7)。つまり石打の後遺症です。そして、パウロは死ななかったのです。この後、パウロが語るのは、「私たちは、神の国に入る為に、多くの苦しみを経なければならない。」(使徒14・22)という真理です。

パウロは、その後も大胆に福音を伝え、ローマで伝道した後に住協するのですが、使命を全うした死でした。人には、生き様と死に様があり、神の使命を果たすべき人は、そう簡単には死なず、死ぬ時が来たら覚悟して死ぬのです。私たちは、死という全ての人の前にある裁きを前にして、いかに生きるべきかをしっかりとわきまえて、神の国への道を歩んでいくのです。そしなければ地獄への道を歩むことになります。

ヨハネ11章17~27、43~45節

  • 11:17 イエスがおいでになると、ラザロは墓の中に入れられて、すでに四日たっていた。
  • 11:18 ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほど離れたところにあった。
  • 11:19 マルタとマリアのところには、兄弟のことで慰めようと、大勢のユダヤ人が来ていた。
  • 11:20 マルタは、イエスが来られたと聞いて、出迎えに行った。マリアは家で座っていた。
  • 11:21 マルタはイエスに言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。
  • 11:22 しかし、あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、私は今でも知っています。」
  • 11:23 イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」
  • 11:24 マルタはイエスに言った。「終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえることは知っています。」
  • 11:25 イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。
  • 11:26 また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」
  • 11:27 彼女はイエスに言った。「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております。」
  • 11:43 そう言ってから、イエスは大声で叫ばれた。「ラザロよ、出て来なさい。」
  • 11:44 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたまま出て来た。彼の顔は布で包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」
  • 11:45 マリアのところに来ていて、イエスがなさったことを見たユダヤ人の多くが、イエスを信じた。