「キリストはWonderful Counselor。」 イザヤ9章1~7節

 イエス様は、「ワンダフル カウンセラー」と預言されています。どのように素晴らしいカウンセラーなのか確認してみましょう。

 中風の人が4人の人に戸板のような寝床に担がれ、イエス様が説教されている家の屋根を剥がしてイエス様の前に釣り降ろされました(マルコ2・3-4)。中風とは、現代では、脳梗塞や脳出血によっておこる半身不随や手足のマヒとされていますが、昔は、身体が動かないこと全般に言われていたのではないかと思います。戸板に載せて運んできたことは、むやみに動かさないので正しい判断でしょう。この4人の強引さには驚きます。よほど、この病人を大事に思っていたのでしょうが、説教中に屋根を剥がして降すのは、すごい執念です。命の危険をも差し迫った状態だったのでしょう。

 「イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、『子よ。あなたの罪は赦されました』と言われた。」(マルコ2・5)とあり、その4人の信仰が記されます。その信仰とは、友を救うためにガムシャラになったことでした。そして、病人には、癒しを祈ったのではなく、罪の赦しを宣言されました。律法学者は、それを見て、赦しを宣言することを非難します。イエス様は、「中風の人に、『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。」(マルコ2・9)と彼らを指導します。人は、病を癒されても心の悩みは解決されないものです。イエス様は彼の根本的問題を見抜いたのです。

 律法の順守を重視して人を批判する人々に「『安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか』と言われた。彼らは黙っていた。イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆きながら、その人に、『手を伸ばしなさい』と言われた。彼は手を伸ばした。するとその手が元どおりになった。」(マルコ3・4.5)。このことを何故、安息日順守と結びつけてされたのか。それは萎えた手を癒しただけでは、この人の罪責感は癒されず、自分は罪を犯したから手が萎えてしまったという劣等感・認罪感が癒されなかったからであると思います。神は、良いことをすることを喜ばれる情愛に満ちた神であるという意識こそ、人間が強く生きるためには必要なのです。

 サマリヤでは、女性に水を飲ませてくれと井戸で頼んでいます。「サマリヤを通っていかなければならなかった。」(ヨハネ4・4)とありますが、この女性に会い救いに導くのが目的であったようです。ユダヤ人が見下しているサマリヤ人、それも女性に対して話しかけ、水を求めることは、慣習からはあり得ないことです。そして、会話に入り、飢え渇きを癒す「永遠のいのちへの水」(14)を与えるという信仰論議になり、更に女性が正午に水を汲みに来る、つまり、人に会いたくない恥を負っていることの追求に入ります。この女性の夫は次々に死ぬか分かれたかで5人もいました。そして現在は、妾として養われているのでしょう。イエス様がそのことを知っていることを聞いて女性は驚きます。「先生。あなたは預言者だと思います。」(4・19)とは、同胞のサマリヤ人からも蔑視されていた自分に、神に仕える預言者が語り掛けたという喜びもあります。

 「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(4・23.24)とは、蔑まれていたこの女性の祈りへの神の応答です。そして、町に戻り、「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」(4・29)。既に隠れひがんで生きる女性ではなくなっているのを見て、「その町のサマリヤ人のうち多くの者が、『あの方は、私がしたこと全部を私に言った』と証言したその女のことばによってイエスを信じた。」(39)のです。

 姦淫の現場で捕らえられた女性をイエス様の前に連れてきました。律法では石打の刑であり、逃れられないと皆が考えておりました。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」(ヨハネ8・7)。そして、イエス様は、地面に何かを書き続けられました。そして、「彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。」(9)。「『婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。』彼女は言った。『だれもいません。』そこで、イエスは言われた。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。』」(10.11)。

 誰にも悩む問題はあります。それに対して、躁うつ病になる人は、人一倍優しい人かもしれません。統合失調症になる人は、どうにかして解決しようとして必死になり過ぎるのかもしれません。ともかく、主は心を癒してくださいます。自分の過去や失敗をどうにもすることができません。祈り、主に叫び、主に聞くことです。主イエスだけが、私たちを赦し、癒してくださいます。

 人間が罪深いということは、神に依り頼まないで自分の力で解決しようとすることです。そして、人の罪に対しては、許さず責めることです。信仰者は、自らの過ちも、弱点も、罪も、神に委ねて生きるのです。

イザヤ9章1~7節

  • 9:1 しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。
  • 9:2 やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。
  • 9:3 あなたはその国民をふやし、その喜びを増し加えられた。彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜んだ。
  • 9:4 あなたが彼の重荷のくびきと、肩のむち、彼をしいたげる者の杖を、ミデヤンの日になされたように粉々に砕かれたからだ。
  • 9:5 戦場ではいたすべてのくつ、血にまみれた着物は、焼かれて、火のえじきとなる。
  • 9:6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
  • 9:7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる。