「岩の上に立つ教会」マタイ16章13~19節

イエス様は、日常接している者にとって、まぎれもなく「人の子」であり、外見では普通の人です。私たち、後世になって聖書を読む者にとって、救われた者にとっては、救い主イエス・キリストですが、実際に共に生きた人々にとっては、神の子であるという思いにはならなくて当然だと思います。

「バプテスマのヨハネ」と言われるのは、従弟であるので、そっくりであったからであると思われます。「エリヤ」は預言者としては代表的な人物であり、「主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。」(マラキ4・5)の預言の成就として、イエス様は「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。ヨハネに至るまで、すべての預言者たちと律法とが預言をしたのです。あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです。」とバプテスマのヨハネが神の到来を預言する「エリヤ」なのだと語っています。しかし、人々は、到来する神が、イエス様のような普通の人であるとは全く考えていないのです。

「エレミヤ」については、3月に語ったように、神の裁きを預言し迫害された預言者として理解されています。「預言者のひとり」とは、新しく遣わされた預言者であるという理解です。人々は、イエス様が奇跡を為し、神の言葉を解き明かし、悔い改めを迫るという面で、確かに預言者の一人であると確認していました。しかし、それは神についての誤解が強いのでした。

「この人こそ、『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。』と書かれているその人です。」(マタイ11・10)という人がバプテスマのヨハネですから、「あなた」とはイエス様のことなのです。そのような中で、「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と告白したペテロは、どこまでその告白の意味を知っていたかは疑問ですが、やはり聖霊に導かれた告白であることに間違いはありません。救われていなくても、聖霊のバプテスマを受けていなくても、聖霊に導かれることは当然あるのです。ザカリヤもエリザベツも、母マリヤもそうでした。

信仰の基本は知的理解や納得ではありません。聖霊による感化を受け入れるということです。救いは、いのちの御霊によるからです。ペテロの信仰告白は、その後には、イエス様を3度も否むような浅薄なものでした。しかし、教会の基礎は、そのような信仰告白の上に立つのです。

日本人は、しばしば「約束を守れ。」、「自分に責任を持て。」、「嘘偽りなく生きろ。」などと言いますが、そういう人間性の確実さに重きを置いていないのが、聖書の教えです。人間は、ペテロのように罪深く、いざという時には自分を守るためには、嘘もいい、誤魔化しをするのです。私はしばしば、「言い訳を言うな。」と言いますが、それでも言い訳をするのが人間なのです。つまり、大事なことは、その時、その時に、聖霊に導かれて信仰告白をするということです。そして、御霊によって石の器でありながら、神に用いられる尊い器になり、その信仰者によって神の教会が築き上げられるのです。「教会はキリストのからだであり」(エペソ1・23)、「聖徒たちを整えて、奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり」(エペソ4・13)ます。

 先週は、礼拝に来られない兄姉の為に祈り、昨日はアグネスさんの出産のために祈り、いろいろと助け合っていました。それが教会なのです。プロテスタントの信仰は、知的理解とされるところがありますが、それならばサタンのほうが私たちよりも遥かに知識豊富です。大事なことは、「信じて行う。」ということです。「ハデスの門」、つまり誘惑の道に打ち勝つのは、信仰者の互いを愛する行いなのです。

 「天の御国のかぎ」とは、神の国の祝福を受け取るための鍵です。神の国の祝福を自分のために求める者には、その門は閉じます。教会の他の人の祝福を求め、神の栄光を現わすために求めるためには繋がって、豊かな祝福をもたらします。

 鍵を持つということは、神の家の運営を司り、その鍵の用い方を知っている執事でなければなりません。私は牧師ですから、その運営を任せられていますが、他の人でも、その使い方を知れば、自由に「天の御国のかぎを上げます。」と言われるのです。

 他宗教や寺社を攻撃して、「サタンよ。出ていけ。」などと祈る過激で異常なカリスマ派の人々がおります。信仰は人を攻撃するものではありません。

 信仰者に躓く人がおります。自分の信仰の愚かさ、浅さを恥じる人もおります。一生懸命努力して、知的理解に努める人がおります。そういうことも青春期には大事です。しかし、「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。」(マタイ22・37-39)であり、大事なことは知的理解ではなく、愛することです。

マタイ16章13~19節

  • 16:13 さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」
  • 16:14 彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
  • 16:16 シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
  • 16:17 するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。
  • 16:18 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。
  • 16:19 わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」