「土の器の中に」Ⅱコリント4章6~15節

人々はコロナウィルスを恐れています。興味深いことは、がんの末期の人がコロナウィルス感染を恐れて、治療を進めないでいることです。末期でそのままでは死ぬと宣言されていても、コロナウィルスを恐れているということは、ウィルス感染で死ぬことを嫌がるのか、がんでは死なないと考えているのか、ともかく人間とは不可解な思考をします。漠然とした恐怖感におののき、死の現実に耐えられないのです。

人間は単なる土の器に過ぎません。「あなたは顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。」(創世記3・19)。私は、中一の春に、方丈記(1212年)を読み、「よどみの水面に浮かぶ泡は消えては生じ、そのままの姿で長くとどまっているというためしはない。世の中の人と住まいも、これと同じなのだ。」という一節に涙を流しました。

方丈記は、縦横一丈の小さな庵に住んだ鴨長明が戦乱の世に生まれ、災害も続いた末法思想の無常観を詠ったものです。私は人生とははかないものだと長い時間泣いていましたが、突然、どうせ泡と消えるならば、自らの満足の行く人生を歩もうと決心したのでした。12歳の春、今から54年も前のことですが、その思いは私の主キリスト・イエスによる救いを得て、確固たるものとなりました。

土の器に過ぎない人間が、自らの中に何を入れるかによって、その器の意味が違ってきます。食べ物を入れる器でしょうか。日々、労苦して食事をすることで満足するならば、動物のようです。聖書は、人間は動物ではなく、「さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地をはうすべてのものを支配するように。」(創世記1・26)と、神に似た支配者として人間を造られたのです。

「土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。」(2・7)ので、霊を持つのは人間だけなのです。動物にも心があるので考え判断するけれども、霊が無いので、人格がなく、愛することも神を礼拝することもできないのです。

「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手の業を告げ知らせる。」(詩篇19・1)と悟り、人格をもって神を褒めたたえるのは、人間だけなのです。そして、この礼拝心、信仰心を失えば、人間は単なる土の器に過ぎないのです。先週はラインで、見事なシャクヤク、オオデマリの花を見せました。神に創造されたものは、神を讃美するのが使命なのです。私は、その讃美の中に加われる感動を被造物と共有するのです。そして、それが被造物の喜びなのです。

7節の宝とは、「福音の光」(4)であり、「いのちの御霊」(ローマ8・2)です。「もし、神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」(ローマ8・9)。

 この宝を私たちの内に保持してれば、外からの迫害、攻撃にもびくともしません。8節から10節にあるようです。「いのちの御霊」が内在すれば、私たちは「いのち」ある存在となるのです。人々は、たかがコロナウイルスによって怯えて暮らしていますが、本当に恐れるべきものは、「たましいに戦いを挑む肉の欲」(Ⅰペテロ2・11)なのです。罪は、私たちを永遠の滅びに導くからです。「主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現れるときに起こります。そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。」(Ⅱテサロニケ1・7-9)。

 数週間に亘って語っていますが、今や「恵みの時、救いの日」(Ⅱコリント6・2)は過ぎようとしており、裁きの時が近づいているのです。「人はその口にするあらゆる無駄なことばについて、裁きの日に言い開きをしなければなりません。」(マタイ12・36)。

 自らの言動について反省せず、自我の主張と欲望を繰り返す。神を賛美することなく、自己の繁栄と欲望を求める。このような生き様が、その人に喜びや感謝、平安やいのちをもたらすことはありません。

 私自身は、12歳の春の決心も、大学に入り、この世の荒波と欲望の中で埋没しそうになりました。確かに、他の人と比べたら成功者の道を歩んでいましたが、心の中は虚しさで一杯でした。リーダーとなり、人々が私を褒め、私についてきたり、尊敬されたりするほどに、困り果てたものでした。

 導かれた教会は、平凡な人々の集まりでした。いちいち、ハレルヤ、感謝、という言葉と、愚かなほどに素直な人々に呆れました。論理思考をしっかりと持ち、意思や努力で成功を目指す私には、おかしな、この世離れした気のいい人々の集まりでした。「こんな人々と一緒にいたら、緊張感がなくなり、ダメな人間になる。」と考えて、教会生活は熱心にならず、教養の段階に保とうと考えたのでした。そして、最後と思い参加した二泊三日の研修会で救いと同時に聖霊のバプテスマを受けたのでした。その後、自らが平安と喜びに満たされていることに気が付き、ハレルヤ、と讃美していたのです。私は、自らの内に「いのちの御霊」を得たのでした。今も、この宝は私の内に輝いているのです。

Ⅱコリント4章6~15節

  • 4:6 「光が、やみの中から輝き出よ」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。
  • 4:7 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。
  • 4:8 私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。
  • 4:9 迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。
  • 4:10 いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。
  • 4:11 私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。
  • 4:12 こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。
  • 4:13 「私は信じた。それゆえに語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語るのです。
  • 4:14 それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです。
  • 4:15 すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためです。