「いつまでも主の家に住まいましょう。」詩篇23篇1~6節

4月末から6日間の休みを長柄で過ごしました。日陰には生姜やミョウガを植え、サツマイモ、カボチャ、スイカ、キュウリ、ナス、ミニトマト、ピーマン、唐辛子、ニガウリ、オクラを植えました。既にブルーベリーやイチジクは実が育っています。ミカンの木に陽が当たるように白樫の選定をしました。花々も見事に咲いています。私は飽きずに庭の管理をしていました。

「主は我が牧者」その思いが湧いてきました。果樹野菜が実るように世話をし、心に掛ける中で、私を見つめる主の眼差しを感じました。主に見守られ、育てられてきました。祈りの中で、主の御心の中を歩めたかどうかを振り返り、吟味しました。

確かに、愚かな羊のように勝手気ままな歩みをしてきました。主が私の牧者でなければ、私はどうなってしまっていたでしょうか。自らを正しいとし、いろいろとぶつかり、人にも組織にも反抗してきました。よく守られたと振り返ります。病気で夫婦ともに絶望の時が何度もありました。全身蕁麻疹の時、切迫流産の時、不整脈で動けなくなった時、説教中に心臓の異常で動けなくなった時、低血糖症、出産前後の遠方での勤務や診療、大腸がん、脊柱管狭窄症、他にも幾多ありますが、主の守り以外には説明がつきません。

経済的困窮も長らく続きました。教会の経済を支える為に什一献金や会堂献金を多額にしてきて、生活費は殆どなく、子供達にも迷惑を掛け、また人々からも馬鹿にされました。破産の危機も数え切れぬほどあり、保険の解約や借金もありました。生きていくことが辛いのに、それを告白したら、信者にも周囲の人々にも証しが付かないと耐えてきたので、心身がボロボロになっていました。神を信頼するよりも、根性で生きてきた私を、主が一方的に守ってくださいました。

そのような歩みをする牧師ですから、多くの人が教会を去っていきました。祈りの中で未熟さ、至らなさを悟りながらも、強くならなければならないと信じていました。そして、試練は続き、これでもかこれでもかとぶん殴られているような感じでした。

従業員が失敗をして、「今後は2度と同じようなことはしない。」というから、「そういう日本人的思考はやめた方が良い。人間は失敗をするものだ。失敗を覚悟して、他の人にも優しく思いやる人になるほうが、はるかに幸せになる。」と伝えました。語りながら、私は変わった、と思いました。この日本人的思考から抜け出すのに、何年掛かったでしょう。

「死の陰の谷」も、「災い」も、「敵」も多くありました。よくぞ、守られたと、感謝するだけです。自分で戦おう、自分の力や能力を上げようと考える人は多くおります。特に、日本人はそのように教えられてきました。神なき社会の考え方です。

 コロナウイルス対策では、神なき社会の脆さをクリスチャンでさえ、気が付いていないようです。彼らにとって、死は敗北です。現世での繁栄と享楽が彼らの望みだからです。死という現実は、誰にもあるのに、日常は無視しているのです。しかし、人間の力で対応、解決出来ないものが現れた時に慌てるのです。魂の救われたクリスチャンにとって「『死は勝利にのまれた』としるされている、みことばが実現します。『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。』」(Ⅰコリント15・54.55)。

 次女のマリヤがウイルスの蔓延しているアメリカに旅立ちます。「罹ってしまうかもしれない。」と恐れながらも、旅立ちます。結婚相手とその母の悲しみを共に慰めたい、との気持ちを大事にしなさい、と伝えました。

 「私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。」人間の能力で出来ることなど大したものではありません。「風を警戒している人は種を蒔かない。雲を見ている者は刈り入れをしない。」(伝道者11・4)。自分の損得で考える人は、災害の時にも何もしない人です。神を信じるということは行動を取るということです。「 朝のうちにあなたの種を蒔け。夕方も手を放してはいけない。あなたは、あれか、これか、どこで成功するのか、知らないからだ。二つとも同じようにうまくいくかもわからない。」(同11・6)。人生を神に委ねて、為すべきことを日々行えば良いのです。

 「災い」を避けて生きることが大事だ、と人々は言います。感染を避ける為に、教会に来ないようにと諭す牧師は、神の前に出た時に、どのように弁明するのでしょうか。「私は災いを恐れません。」とは、災いが自分の身に及んでも恐れません、ということです。

 危険を恐れ用心していることを自慢している人がいます。彼らは、その先に誰もが行く死後の世界を恐れていないのです。愚かな人です。過去において、災害は人々に信仰を促してきました。しかし、現代の教会は、このコロナ災害によって総崩れを起こすでしょう。

 ニュースは批判的なことにまみれています。互いにいがみ合っているのです。「私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」と告白、讃美できる信仰者は幸せです。

詩篇23篇1~6節

  • ダビデの賛歌
  • 23:1 【主】は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
  • 23:2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
  • 23:3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
  • 23:4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
  • 23:5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
  • 23:6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、【主】の家に住まいましょう。