「基督の教会を寿ぐ(ことほぐ)。」 マタイ書16章15節~19節 櫻井圀郎協力牧師

  Ⅰ ペトロス

 ペテロは、ガリラヤ湖の漁師でした。がっしり体格で、日焼け顔と太い手足、図太い大声の人物かと想像します。宗教に熱心とか、学問、経営の才覚、話し上手、人集めが上手いなどではなさそうです。

 しかし、主の目には特別に見えたようです。主の宣教活動の開始直後に、漁の最中に見初め、「我に付き従え」と声をかけられたからです。主の選びとは、そういうものでしょう。

 そのペテロが、主の問いに即答し、「汝は、生ける神の子・基督なり」と言ったことが本日の聖句の前提です。ガリラヤ湖での招きにも、躊躇なく、網を捨てて、主に従っており、この問いにも即答しています。選びの理由なのかもしれません。

 ペテロ、「シモン」が本名。ユダヤ人の話すアラム語で「岩」という意味の「ケパ」と呼ばれていました。その希語訳が「ペトロス(ペテロ)」。日焼け顔、身体も手足も頑丈で黒かったので、「岩」と呼ばれていたのではと想像します。

 主の呼びかけや問いに即応・即答したように、芯が強い、意思が硬いという含みかも。名は人の姿や性格を表すからです。

 すると、主の言葉「汝は岩なり」とは、「汝の名は『岩』なり」ではなく、「汝は『岩』と呼ばれているなり」の意味に解するのが適切です。

 「この岩の上に建築せん」の「この岩」とは、第一に、ペテロという解釈。文字通りには最も適切。カトリックの立場。ペテロはローマの司教に任命されており、「ペテロの座」と称して、代々の教皇が教会を築いてきました。

 一方、プロテスタントでは、「この岩」をペテロの信仰告白と理解し、信仰告白こそが教会の基礎であるとしてきました。私もそれに賛同しますが、ペテロの即答に意味があると考えます。いい加減な即答ではなく、確固たる確信に基づく即答です。確信による即答、身についているが故の即答、疑いの余地のない即答、それこそが「岩」なのです。

 Ⅱ エクレーシア

 日本語で「教会」、英語で「church」と訳され、羅語で「ecclesia」、仏語で「église」、西語で「iglesia」など「エクレーシア=教会」ですが、元々、「教会」という意味ではありません。

 元々、古代ギリシャの都市国家・ポリスの「議会」という意味です。自由市民が全員参加する直接民主政でした。議会開催の必要が生じで議員を招集をすることを希語で「エク・カレオー」(呼び出す)。呼び出された集団を「エクレーシア」をいいました。

 ユダヤ教の会堂は「シナゴーグ」なので、新しい信仰者の集団も「シナゴーグ」と呼ぶのが通常ですが、主は、新しい集団を「エクレーシア」と呼ばれたのです。「呼び集めしもの」という意味です。構成員となる一人一人には、神の言葉・聖霊によりエクカレオー。それに従うか否かは自由意思ですが、ペテロの即従に倣いたいものです。

 そのエクレーシアを、主は「建築する」と言っていますが、ペテロの信仰告白の上に建築するので、建物ではありません。建物の建築に準えた表現。何もなかった土地の上に建築することによって建物が出現するように、何もなかったものを新しく作るという意味でしょう。

 その通りに、今までになかった新しい制度。基督の教会です。ペテロが前触れなく呼ばれたように、突然に召し出されます。古代ギリシャのポリスのように、一人一人が責任をもって立法、行政、司法に参与し、それぞれの賜物に従って奉仕するのです。

   Ⅲ ムライ・ハドゥ(ハデス)

 「ムライ・ハドゥ」=「ハデスの門(黄泉の門)」。

 「門」という概念、日本人とは意味合いが異なります。旧約聖書では、ソドムの門、サマリヤの門、エフライムの門、ベツレヘムの門、サマリヤの門、エシャナの門、エルサレムの門、バテ・ラビムの門、ベニヤミンの門など。

 町全体が、5階建てのビルのような、高く幅の広い擁壁で囲まれています。一足で中に入れる日本の門とは異なり、門を通過するのが問題です。

 旧約聖書では、「町の門」に準えて「天の門」「死の門」「死の影の門」「黄泉の門」が書かれています。ユダの王ヒゼキアも、病気の時、「生涯の半ばで黄泉の門に入る」と嘆いています(イザヤ38:10)。

 「黄泉の門に入る」とは「黄泉に入る」を意味し、「現世に戻ることはできない」を意味。「黄泉」は「死者の居所」という意味で、「黄泉の門」は「死の門」という意味。

 町の門は、入る者も、出る者もおり、出入域を管理する施設ですが、黄泉の門は、入る者を迎える一方で、出ることは許さない門です。その性質は、出入りの管理ではなく、死者を閉じ込めておくことです。

 日本の『古事記』では、妻イザナギが死んで黄泉に下ったところ、夫イザナミは黄泉まで行って、イザナギを連れ戻そうとしますが、死者となったイザナギに怯え、逃げ出しています。日本では、黄泉への出入りも可能なようですが、聖書では不可能です。

 「黄泉の門が基督の教会に勝つことなし」とは、黄泉の門が死者を閉じ込める機能を有することに着目した説明。「基督の教会は、黄泉の門によって閉じ込められることがない」という意味。基督の教会は死ぬことがなく、永遠なのです。

マタイ書16章15節~19節

  • 16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
  • 16:16 シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」
  • 16:17 すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。
  • 16:18 そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。
  • 16:19 わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」

マタイ16:18 直訳

  • あえて我も汝に言わん。「汝は岩(ペトロス)なり。この岩の上に、我、我が呼び集めしもの(エクレーシア)を建築せん。黄泉の門は、それに勝つことなし。」