「神に信頼した者同士の歩み。」 マタイ1章18~25節

ヨセフは、婚約者マリヤが妊娠していることを知りました。普通の男性ならば怒り狂い、過激な人ならば告発してマリヤを石打ちの刑にするでしょう。「マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。」(19)とは、感情に揺れ動かない非常に人格者であることを示します。

「彼がこのことを思い巡らしていたところ」(20)とは、祈りの中で自分の行動を吟味する敬虔な信仰者のパターンで、マリヤもまた「これらのことをすべて心に納め、思いを巡らせていた。」(ルカ2・19)という行動を取ります。

ヨセフは、夢で「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。」(20)と語られますが、夢で見たことを信じ受け入れ、それに自分の判断を委ねる人というのは、稀有なことです。真摯な信仰者ならではの姿勢です。

ナザレからベツレヘムまでは直線距離で115キロ、現在のルート6のハイウェイで150キロです。ナザレは標高400mでベツレヘムは775m、途中は、上り下りのある山道ですから、たとえロバを使っても少なくても5日は掛かるでしょう。その道を身重のマリヤを労わりながら進むヨセフの心情はいかなるものでしょう。

 しばしば人は、「正直に真実を話しなさい。」とか、「真実は一つ。」などと言います。その人の見聞きしたことが「真実」のある一面であり、他から見れば違うように見えることもあります。そして、その人の体験したことが「真実」だとしても、神の目からしたら、別の見方もあるのです。「本当のことを言ったら赦してあげる。」などと親や人間関係で語ることがありますが、人には究極的には裁く権利も能力もありません。実際には、証拠充分で判決が出ても、後日に誤審だったことが判明することがあります。社会制度上、裁判が必要ですが、現代は人が人を安易に裁きすぎると思います。

ヨセフは夢でしか語られず真実を十分に知ることはなかったのですが、マリヤに詰問をせず、労り、守り、支えました。信仰を持って歩んだのです。

「夫婦の間で隠し事はない。すべてを伝えておくべきだ。」という人がいますが、全部知ってどうするのでしょうか。人は罪びとであり、愚かなこともかなりしてしまいます。そんなことをいちいち伝えられたら、平安を保てません。夫婦は愛し合い、信頼し合い、赦しあったら、それで良いのです。人生の基盤を信仰に置くべきです。

家畜小屋でマリヤが出産した時は、なんという不幸かと思ったでしょうか。長い苦しい旅路の末に、不衛生で不便な家畜小屋での出産。不幸の原因をヨセフは探ったでしょうか。そんなことはありません。

その後、羊飼い達が、赤子を礼拝しに訪れました。二人は、生まれたばかりの赤子を礼拝する羊飼いを見て、本当に励まされたでしょう。8日目の割礼を施す日に、イエスという名前が付けられました。それは、マリヤが天使ガブリエルに言われた名前(ルカ1・31)で、ヘブル語ではヨシュア、「ヤーウェは救いである。」という意味です。

「律法による聖めの期間」(ルカ2・22)は、レビ12・4によれば、男の子ならばその33日後で、全焼のいけにえを捧げます。ベツレヘムからエルサレムは9キロなので簡単に行けます。そこで、敬虔な人シメオンは「私の目があなたの御救いを見たからです。」(ルカ2・30)と預言します。女預言者アンナも幼子を通しての救いの御業を預言されます。「父と母は、幼子について語られる様々なことに驚いた。」(2・33)

ナザレへ帰るには出産後のマリヤと幼子には辛く、住民登録もあるので、ベツレヘムに留まっていると東方から博士たちが訪ねて来て幼子を礼拝し、「黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」(マタイ2・11)。ところが、天使が「エジプトに逃げなさい。ヘロデがこの幼子を探し出して殺そうとしています。」(2・13)と告げたので、その夜のうちに親子で逃げ出します。当時のベツレヘムの人口は300人程度とされますが、ヘロデは「その周辺一帯の二歳以下の男の子をみな殺させた。」(16)。神の子、救い主は生まれながらにして悪魔の攻撃を受け、試練の中に育ったのです。

約2年後にヘロデが死に、「幼子とその母を連れてイスラエルの地に行きなさい。幼子のいのちを狙っていた者たちは死にました。」(20)と天使に夢でヨセフは語られ、「ナザレという町に行って住んだ。」(23)

ヨセフはダビデ家の末裔であり、職業は大工でした。マリヤと結婚しなければ、マリヤは殺されました。イエス様は養父ですが、その後、「ヤコブ、ヨセフ、ユダ、シモンと妹たち」(マルコ6・3)をマリヤとの間に生まれます。ヤコブは、イエス様の生前は反対していましたが、復活のイエス様に会い(Ⅰコリント15・7)、義人ヤコブとしてエルサレム教会の中心となります。ヨセフは、生涯マリヤを守り愛した、穏やか、かつ厳格な父だったのでしょう。ヤコブの姿にヨセフの面影を見ます。

マタイ1章18~25節

  • 1:18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。
  • 1:19 夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。
  • 1:20 彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。
  • 1:21 マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」
  • 1:22 このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。
  • 1:23 「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。
  • 1:24 ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れたが、
  • 1:25 子を産むまでは彼女を知ることはなかった。そして、その子の名をイエスとつけた。