「天の御国を激しく追い求める。」マタイ11章12~20節

バプテスマのヨハネが「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(マタイ3・2)と叫ぶ前には、旧約聖書には「天の御国」とか、「神の国」という言葉は検索してもありません。それをヨハネは、荒野で「主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ」(同3・3)との使命を帯びて一般の人々に語り、宗教指導者に対して「悔い改めに相応しい実を結びなさい。」(同3・8)と警告したのです。

不思議なことに、「天の御国は激しく攻められています。」(同11・12)と言う言葉は、天の御国は暴力的に反対されている、と解釈する註解者が多いのです。それでは、「激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」ということでは、その人たちが天国に入っているということになり、おかしなことになります。神がそのような理不尽な侵入を許すはずはありません。穏当な信仰行動を強調する聖書学者の解釈でしょう。

しかし、ルカ16章を読めば、神の国に入るには、律法の順守や道徳的な生活よりも、神の国自体を求めた行いと願いが大事だとイエス様は語られているのです。

続けてルカ16章19節から、金持ちと貧乏人のラザロの話をイエス様はされています。金持ちは、「毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。」(19)けれど、ラザロには何も与えませんでした。「できものだらけの貧しい」(20)ラザロは、苦しさや飢えの中で神を激しく求めながら死んでいったと思われます。例え話に名前を付けられた人がいるのはラザロだけです。ラザロという名は、「神は我が助け」という意味だそうです。しかし、金持ちは、豊かさの中で過ごし、神をも真理をも助けをも求めないで暮らしていたのです。つまり、金持ちは、神をも神の国をも求めないで生きていたのです。

16節からの聖句は、「笛を吹いたのに踊らなかった。」(17)と反応のない人々を責めていますが、奇跡をしても福音を伝えても、「悪霊に附かれている。」(18)と批判するだけの人々に対してです。

地方都市に住む人と話をしました。地域のしきたりや風習を守って暮らしており、善良な人ですが、決して嫁さんは来ないと思われました。本人は、当然と思っていることが、ただ「付き合いだから」「これまでやってきたから」「家を守らなければならない」「やらなければみっともない」などと風習にがんじがらめで、自分にとって幸せは平凡な日常生活と言うけれど、それは次第に追い詰められていっているようでした。

このような人々は、福音の光に目を留める余裕がないのです。イエス様は、それをサタンの惑わしに囚われていると指摘します。それは、罪の生活に惑うことなく浸っているので、本人の責任なのです。

イエス様は、「捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、主の恵みの年を告げるために。」(ルカ4・18.19)と福音の恵みを語りました。しかし、人々はそこに救いを求めず、却って「憤りに満たされ」(28)、イエス様を崖から突き落そうとします。

人は、罪に囚われています。そこから抜け出そうと思い願わなければ、救われることも、助けられることも、恵みを受けることもありません。私自身、一つ一つの束縛から抜け出すために多くの戦いがありました。クリスチャンになった時には、合宿で夜中の1時まで皆に責められました。信徒リーダーとなった時は、熱心のあまり大学院の入試に落第して皆に馬鹿にされ、批判されました。結婚と献身が一緒だったので、その時の試練は途方もなく激しいものでした。開拓伝道を始めた時の攻撃も辛いものでした。いつも試練と迫害を受けてきました。私にとって、信仰生活は戦いの歴史です。それは、神の国を、この世に神の支配を獲得するための激しい戦いであり、サタンの支配から魂と勝利を勝ち取るためには、おじけづくわけにはいかない戦いです。

人の罪性は人を弱くします。自分の罪、自分の弱さ、自分の欠点、自分の病気、それらと面と向かって対抗し、勝利する為には戦う勇気を持たなければならないのです。

ところが、イエス様に自分たちの弱さ、不信仰を指摘された人々は、イエス様を攻撃したのです。罪びとは、自分の罪を指摘されると、腹を立てて責めてきます。

今日の午後は、良子師が「運動と免疫」というテーマで講演をします。この為に多くの時間を掛け、祈りながら真摯に努力をしました。でも、実際には、聞いた人の多くが、言い訳をしながら、自らの健康に関する努力を怠るでしょう。そして、不健康になっていき、病気に支配されるのです。人生の戦いは、長く続きます。激しく追い求めなければ、幸せにも、健康にも、神の国にも行きつくことはできないのです。

マタイ11章12~20節

  • 11:12 バプテスマのヨハネの日から今に至るまで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。
  • 11:13 すべての預言者たちと律法が預言したのは、ヨハネの時まででした。
  • 11:14 あなたがたに受け入れる思いがあるなら、この人こそ来たるべきエリヤなのです。
  • 11:15 耳のある者は聞きなさい。
  • 11:16 この時代は何にたとえたらよいでしょうか。広場に座って、ほかの子どもたちにこう呼びかけている子どもたちのようです。
  • 11:17 『笛を吹いてあげたのに君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってあげたのに胸をたたいて悲しまなかった。』
  • 11:18 ヨハネが来て、食べもせず飲みもしないでいると、『この人は悪霊につかれている』と人々は言い、
  • 11:19 人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『見ろ、大食いの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言うのです。しかし、知恵が正しいことはその行いが証明します。」
  • 11:20 それからイエスは、ご自分が力あるわざを数多く行った町々を責め始められた。彼らが悔い改めなかったからである。
  • ルカ16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人々の前で自分を正しいとするが、神はあなたがたの心をご存じです。人々の間で尊ばれるものは、神の前では忌み嫌われるものなのです。
  • 16:16 律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音が宣べ伝えられ、だれもが力ずくで、そこに入ろうとしています。