「神の国に住まう。」 マタイ5章3~13、19~20節

牧師でも誰でも、「この人は天国に行った。」「行けなかった。」などとは言ってはいけないものです。ただ、それでも多くの関心はあります。先日の葬儀でも、遺体の顔を眺めながら、そのことを神に問いながら祈り続けていました。会社では大きな働きをしたけれども、退職後何年も過ぎれば、現代の会社は全く対応しないものです。葬儀には誰も来ないだろうと思いましたが、それをどう思うか遺体の顔を見ながら問いました。彼の性格からすれば会社の為にしたのではなく、顧客の為に悔いのない働きをしたという自負が感じられます。謙遜で細やかな配慮をしており、私の家具の注文を聞き分けて適切な物を紹介してくださいました。私のことを「先生」と尊敬してくださり、悔い改めの祈りもはっきりとしました。認知症が進んでも、誇りを持ち、礼を失したことは全くしておらず、十分社会に尽くしたという満足感を持っているようでした。予定した洗礼式の前に死んでしまいましたが、神の国に招かれる資格は十分にあると思い、葬儀を終えました。

今日の聖句には、神の国の民となる人の要素が書いてあります。何度も伝えているように、罪の悔い改めは絶対条件です。しかし、私はその悔い改めも形式的にしている場合があることを知っています。その人は、平気で人の悪口を言ったり裁いたりしている人です。「兄弟に対して怒る者」「馬鹿者と言う者」「愚か者と言う者」(マタイ5・22)は、ゲヘナに投げ込まれるとイエス様が宣言しています。

「祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。」(同23.24)。これは、自分が恨んでいるのではなく、恨まれているならば、ということです。人と仲良くできず、好き嫌いのある人は神の国に住まうことはできないのです。むろん、悪人と仲良くなる必要はありません。ここでは「兄弟」とあります。

「心の貧しい者」「悲しむ者」「柔和な者」「義に飢え乾く者」「憐れみ深い者」「心のきよい者」「平和を作る者」、が神の国に行けるのです。女子のプロゴルフで、自分の意見に従わなかった選手を罵倒して、ゴルフバックを運ばなかったキャディがいました。腹が立って、それを制御できなかったのでしょうが、おそらく資格はく奪されるのでしょう。同様に、神の国に入るには、謙遜や優しさが大きな要素になると思います。

自分の思い通りになるように願うのが罪なのです。人は、思い通りにならないことに怒り、興奮し、罪を犯すのです。或は、自慢できない自分が嫌で嘘をつき、見栄をはり、虚実に生きるのです。謙遜な人は、自分の弱さや愚かさを隠しません。他人を思い通りに動かそうとして批判をし、攻撃する人は、神に拒まれるのです。毎日を生きる中で、神の国に相応しいかどうか、自分でわかってきて悔い改めるのが神の国の住民です。

「これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。」(19)、少しくらい破っても神の国に行けるのかと安心してはなりません。その罪に対する放縦さが自らを滅ぼすのです。

私は、子どもたちや教会員の様子を見守りながら祈っています。自分の行いや考え方を正当として歩むと、試練や困難に際して、苛立ち、不満を持ち、ストレスを感じて、自ら墓穴を掘っていきます。そこで、悔い改めて成長するか悪化するかは、本人次第です。諭しても、教えても、人の心は頑なであり、簡単に変わるものではありません。ところが、説教や教えに反応する人々がいることに感動を覚えます。人は聖霊に反応しなければ真の悔い改めはないからです。

人生の様々な出来事は私たちが神の国に相応しいかどうかの試金石です。うまく行こうと功成り名を遂げようと、傲慢になったら、神の国には行けないのです。だからこそ、人生の悲惨を通じて、「心の貧しい者」「悲しむ者」「柔和な者」「義に飢え乾く者」「憐れみ深い者」「心のきよい者」「平和を作る者」、が神の国に行けるのです。

残念ながら、敬虔かつ忠実な信仰者でありたいと願い、努力してきても、人生の中でボロがでます。人の目を意識したものか、形式的な信仰者か。「あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。」(20)。自分の考えや主義主張を優先するものは、「神の国とその義を第一に」(同6・33)していないのです。

結局のところ、人生の終わりに謙遜に神の義を優先しているかどうかが鍵です。ところが、終末というものは、全ての人に突然来るので、気を許していてはいけないのです。「教会に来ていた。」「熱心だった。」などと閉じられた門の前で叫んでも開けられることはありません。

マタイ5章3~13節 、19~20節

  • 5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
  • 5:4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。
  • 5:5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。
  • 5:6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。
  • 5:7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。
  • 5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。
  • 5:9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。
  • 5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
  • 5:11 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。
  • 5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。
  • 5:13 あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。
  • 5:14 あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。
  • 5:19 ですから、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます。
  • 5:20 わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。