「全てを捨て、急いで行く!」 ルカ福音書2章8節~18節 櫻井圀郎協力牧師

主イエス基督のご降誕、おめでとうございます。

 英語では「Merry Christmas」。日本語でも「メリークリスマス」といい、韓国語でも「메리 크리스마스(メリークリスマス)」といいます。 「Christmas」とは、「Christのmass」「基督の聖祭(ミサ)」という意味ですから、基督降誕のミサを祝し喜ぶ言葉でしょう。一方、独語では「Frohe Weihnachaten」と言います。「喜ばしい聖夜」という意味です。しかし、仏語では「Joyeux Noel」、伊語では「Buon Natale」といいます。「嬉しい誕生」「良いお生まれ」という意味でしょう。中国語でも「圣诞快乐(聖誕快楽)」で、「嬉しく楽しい聖なる誕生」ということでしょう。露語においても「счастливого Рождества」なので、「良い誕生」という意味です。そして、希語では「Καλά Χριστούγεννα」といい、「良い基督の誕生」という意味です。

 このように、基督の降誕をお喜びする対象には、①「降誕」、②「聖夜」、③「聖祭」の三つがあります。その降誕と聖夜が本日のテーマです。

 Ⅰ 夜番の羊飼いたち

 主のご降誕、最初に確認したのは、ベツレヘムの郊外の放牧地で、野宿をして夜番をしながら、羊の群れを見守っていた羊飼いたちでした。

 なぜ、この羊飼いたちが選ばれたのは詳らかでありませんが、突然、天使が降りて来て、「あなたがたのために救い主がお生まれになりました」「この方が基督です」と宣言されます。

 ダビデの町とはダビデの生まれたベツレヘムです。「ベツレヘム」とは、ヘブライ語で「パンの家」という意味です。「生命のパン」である基督のお生まれに相応しい地です。あえて羊飼いを選んだわけではないかもしれませんが、贖いの子羊とされる基督のご降誕を見届けさせるために選んだのが羊飼いであったというのは偶然のこととも思えません。

 日本社会では、仕事とは金儲けという意識であり、金銭を愛することは神を憎む行為ですから、神への信仰と仕事とは両立しないという感覚ですが、聖書の考えはそうではありません。全ての人間は、神の目的のために創造されたのであり、それぞれに目的が定められ、それぞれの目的を達成するための賜物が与えられています。

 信仰者は、そのことを理解し、自分に与えられた職分に、自分に与えられた賜物の全てを尽くします。それが、仕事、すなわち神に仕える事なのです。その成果は神業です。

 神に信じるとは、神に全てを委ねる事です。全て、神に仕える姿勢で臨む、それが聖書に示された信仰です。天使の来臨を受けた羊飼いたち、こういう信仰者だったのではないでしょうか。

Ⅱ 急いで、ベツレヘムに

 羊飼いたちは、「ベツレヘムに行こう」と協議し、急いでベツレヘムに行きます。早い速度で行ったというのではありません。「急ぐ」が説明しているのは、「行く」に至った経緯です。つまり、「行く」という行為を「急いで」成し遂げたということです。「即断実行」という意味です。実行力のない人の「優柔不断」とは逆です。天使のお告げには、「ベツレヘムへ行け」という言葉はありませんが、羊飼いたちはベツレヘムへ行くことを急いで決定しています。羊飼いたちは、天使が帰られるやいなや、「直ちに」協議し、「ベツレヘムへ行く」と決断しています。急いだ理由は、事の重大さを心得てのことです。時空の世界に生きる私たち人間にとって、行動の範囲も行動の時間も、極々小さな範囲に限られています。自ら意識して行動を決しない限り、殆どその情景は変わることがありません。

私たち神によって神の目的のために創造された人間には、与えられた神の仕事を尽くすために、その場、その時に応じて、事態を即時に判断し、行動を即時に決することが求められています。「夜明けを待って」ではなく、天使が帰られた後、直ちに協議し、即決し、真っ暗な深夜に出立したのでしょう。そのような即断即決を促すもの、それが基督の誕生という事実です。突然の告知にも拘わらず、直ちに決断させ、直ちに行動させる原因なのです。

 この世界の一切の事象は、大は宇宙天体の運行から、地球の自転公転、社会現象から、小はウイルス、原子に至るまで、神の定めの中にあります。神の知らない部分はないのです。

 信仰者とは、自らが神に召された者であるという確固たる信念を持ち、神のご計画の中で、神のご意志に応えるため、最善を尽くすのです。「また今度」とか、「時期が来れば」とか、「他の人がやるなら」とかといった優柔不断な対応は許されないのです。それが可能なのは、神の言葉のゆえです。「全知の神に委ねる」ことこそ、「賢者の道」と言うべきです。その意味で、この羊飼いたちは、神の言葉に従おうとする私たちの模範です。

   Ⅲ もし急がなかったら

 急がなくても天使の言葉を無視したことにはなりません。羊飼いとして、夜明けを待って、牧羊の手配してからベツレヘムに出かけるというのは正当なことですが、それでは「飼い葉桶に寝ておられる嬰児」を発見できなかったのではないでしょうか。抑々、やむを得ず家畜小屋で出産の時を迎えただけなので、いつまでもそこにいるとは限りませんし、生まれたばかりの嬰児をいつまでも飼い葉桶に寝かせておくとも考えられません。飼葉桶に眠れる嬰児を発見できるチャンスは、極めて限られた一時のことでした。凡そ、万事に神の定められた時があります。その際、「自分で取捨選択したい」「こうすれば楽になれる」などと、悪魔・サタンは、私たちの耳許に囁いてきます。丁度、エバに囁きかけたのと同様です。一見合理性のある勧めなのですが、根本を、基本を、基礎を失っています。

 神の言葉に従う、実は、それが「最も時に叶っている」ということです。それが「最も急いで、行く」ということです。その結果として、羊飼たちの全員が、羊の全部を放っておいて、ベツレヘムへと向かったと思われます。

 神の言葉に従うのは、目の前にある羊の群れに目を留めるときに著しく困難になります。しかし、今し方、天使たちの昇って行った天を見上げるとき、著しく容易になります。地を見るか、天を見上げるか、下を見るか、上を見るか、たった、それだけで、全く、自分が、「別者」になってしまうのです。

 その結果として、「急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉桶に寝ておられる、嬰児を探し当てた」のです。それが、天使によって告げられた「救い主の印」でした。

ルカ福音書2章8節~18節

  • 2:8 さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。
  • 2:9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
  • 2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。
  • 2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
  • 2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」
  • 2:13 すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。
  • 2:14 「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」
  • 2:15 御使いたちが彼らから離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは話し合った。「さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう。」
  • 2:16 そして急いで行って、マリアとヨセフと、飼葉桶に寝ているみどりごを捜し当てた。
  • 2:17 それを目にして羊飼いたちは、この幼子について自分たちに告げられたことを知らせた。
  • 2:18 聞いた人たちはみな、羊飼いたちが話したことに驚いた。
  • 2:19 しかしマリアは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。