「誰がパラダイスへ行くのか。」 ルカ23章32~43節

クリスチャンにとって神の国に行くことは大きな望みです。「もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。」(Ⅰコリント15・19)というように、神の国に入ることは命がけのことであり、神による選別もなされる厳しいことです。

 「すべての国の人々が御前に集められます。人の子は、羊飼いが羊をやぎからより分けるように彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。」(マタイ25・32.33)。次に続くように、羊は、神に言われなくても善行(35-36)をするのです。ところが、神の国に行くに相応しくない人は、善行をしなくても(42-43)、そのことに罪責感を覚えず平気でいるのです。

 全てを観ておられる神、裁きをする神を意識して生きるかどうかが神の選びの基準です。多くの人は、他人の目を気にし、指導者や親の目を気にして、悪から離れ、善行をします。しかし、人の目の届かないところでその人の実態があらわになるのです。

 「麦の中に毒麦を蒔いた」(マタイ13・25)のですが、毒麦と良い麦の判別はつかないもので、毒麦と思ったら良い麦で、良い麦と思っていたら毒麦ということもあるものです。誰が神の国に行けるかはわからないものです。ところが、時間が経ち、成長してくると見分けがつくようになります。悪人は、必ず悪をするようになり、選ばれた人は神の目を意識して、悔い改めながら聖められていくのです。

 それでは、使徒となったユダとペテロはどうでしょうか。ユダは先週お話ししたように、「盗人で金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいた。」(ヨハネ12・6)。そして、イエス様を「銀貨三十枚」(マタイ26・15)で祭司長達に引き渡そうとしたのです。しかし、イエス様はユダがご自分を裏切られることを知っておられました。「あなたがたの一人が、わたしを裏切ります。」(ヨハネ13・21)。

 ところが、その裏切りを「すぐしなさい。」(同27)と言われたイエス様は、ペテロにも、「あなたは三度わたしを知らないと言います。」(同38)と語っています。

 ユダは、「私がくちづけをするのが、その人だ。その人を捕まえて、しっかり引いて行くのだ。」(マルコ14・44)と売り渡します。

クリスチャンにとって神の国に行くことは大きな望みです。「もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。」(Ⅰコリント15・19)というように、神の国に入ることは命がけのことであり、神による選別もなされる厳しいことです。

 「すべての国の人々が御前に集められます。人の子は、羊飼いが羊をやぎからより分けるように彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。」(マタイ25・32.33)。次に続くように、羊は、神に言われなくても善行(35-36)をするのです。ところが、神の国に行くに相応しくない人は、善行をしなくても(42-43)、そのことに罪責感を覚えず平気でいるのです。

 全てを観ておられる神、裁きをする神を意識して生きるかどうかが神の選びの基準です。多くの人は、他人の目を気にし、指導者や親の目を気にして、悪から離れ、善行をします。しかし、人の目の届かないところでその人の実態があらわになるのです。

 「麦の中に毒麦を蒔いた」(マタイ13・25)のですが、毒麦と良い麦の判別はつかないもので、毒麦と思ったら良い麦で、良い麦と思っていたら毒麦ということもあるものです。誰が神の国に行けるかはわからないものです。ところが、時間が経ち、成長してくると見分けがつくようになります。悪人は、必ず悪をするようになり、選ばれた人は神の目を意識して、悔い改めながら聖められていくのです。

 それでは、使徒となったユダとペテロはどうでしょうか。ユダは先週お話ししたように、「盗人で金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいた。」(ヨハネ12・6)。そして、イエス様を「銀貨三十枚」(マタイ26・15)で祭司長達に引き渡そうとしたのです。しかし、イエス様はユダがご自分を裏切られることを知っておられました。「あなたがたの一人が、わたしを裏切ります。」(ヨハネ13・21)。

 ところが、その裏切りを「すぐしなさい。」(同27)と言われたイエス様は、ペテロにも、「あなたは三度わたしを知らないと言います。」(同38)と語っています。

 ユダは、「私がくちづけをするのが、その人だ。その人を捕まえて、しっかり引いて行くのだ。」(マルコ14・44)と売り渡します。

クリスチャンにとって神の国に行くことは大きな望みです。「もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。」(Ⅰコリント15・19)というように、神の国に入ることは命がけのことであり、神による選別もなされる厳しいことです。

 「すべての国の人々が御前に集められます。人の子は、羊飼いが羊をやぎからより分けるように彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。」(マタイ25・32.33)。次に続くように、羊は、神に言われなくても善行(35-36)をするのです。ところが、神の国に行くに相応しくない人は、善行をしなくても(42-43)、そのことに罪責感を覚えず平気でいるのです。

 全てを観ておられる神、裁きをする神を意識して生きるかどうかが神の選びの基準です。多くの人は、他人の目を気にし、指導者や親の目を気にして、悪から離れ、善行をします。しかし、人の目の届かないところでその人の実態があらわになるのです。

 「麦の中に毒麦を蒔いた」(マタイ13・25)のですが、毒麦と良い麦の判別はつかないもので、毒麦と思ったら良い麦で、良い麦と思っていたら毒麦ということもあるものです。誰が神の国に行けるかはわからないものです。ところが、時間が経ち、成長してくると見分けがつくようになります。悪人は、必ず悪をするようになり、選ばれた人は神の目を意識して、悔い改めながら聖められていくのです。

 それでは、使徒となったユダとペテロはどうでしょうか。ユダは先週お話ししたように、「盗人で金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいた。」(ヨハネ12・6)。そして、イエス様を「銀貨三十枚」(マタイ26・15)で祭司長達に引き渡そうとしたのです。しかし、イエス様はユダがご自分を裏切られることを知っておられました。「あなたがたの一人が、わたしを裏切ります。」(ヨハネ13・21)。

 ところが、その裏切りを「すぐしなさい。」(同27)と言われたイエス様は、ペテロにも、「あなたは三度わたしを知らないと言います。」(同38)と語っています。

 ユダは、「私がくちづけをするのが、その人だ。その人を捕まえて、しっかり引いて行くのだ。」(マルコ14・44)と売り渡します。しかし、弟子たちも「皆は、イエスを見捨てて逃げてしまった。」(同50)。「ペテロは、遠くからイエスの後について、大祭司の家の庭の中まで入って行った。」(同54)のですが、「あなたはあの人の仲間だ。」(同70)と言われて、三度も否定し、最後は「嘘なら呪われても良いと誓い始め、『わたしは、あなたがたが話しているその人を知らない。』と言った。」(71)。

「ペテロは、『鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います』と、イエスが自分に話されたことを思い出した。そして彼は泣き崩れた。」(72)。「イエスを売ったユダはイエスが死刑に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちと長老たちに返して、言った。『私は無実の人の血を売って罪を犯しました。』しかし、彼らは言った。『われわれの知ったことか。自分で始末することだ。』そこで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして出て行って首をつった。」(マタイ27・3-5)。

イエス様は、人間の愚かさと罪性を十分知っておられ、悔い改めることを求めておられるのです。十二使徒の筆頭であるペテロでさえ、イエス様が捕まり自分の命が危ういと思ったら、裏切ってしまうのです。私たちは、普段、それほど困難や艱難に遭わずにきれいごとを言っており、ちょっとしたことでは言い訳が通じると思う生き方をしています。

ユダは、打算で生きる生活習慣から抜け出せなかったのでしょう。大谷選手の通訳が、ギャンブルから抜け出せなかったというのも同様です。自分の弱さを軽視して、神の国に生きることを重要視していないと、必ず罠にかかります。そして、道から外れてしまうのです。それでも、悔い改められれば、良いのです。殆どの人は、悔い改めず、滅びの道を歩いているのです。

今日の聖句、犯罪人の一人は、悔い改めることなく、イエス様に要求し呪うばかりです。しかし、もう一人は、「おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。」(41)と、十字架の刑罰を当然の罰として受け入れています。そして、「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」と、神の国への願望、救いの願いを告白しています。多くの人が、神を求めずに生きています。イエス様は、「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」と約束してくださいました。なんと素晴らしい、赦しと救いでしょうか。あなたのにも語られているのです。

ルカ23章32~43節

  • 23:32 ほかにも二人の犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために引かれて行った。
  • 23:33 「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけた。また犯罪人たちを、一人は右に、もう一人は左に十字架につけた。
  • 23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。
  • 23:35 民衆は立って眺めていた。議員たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」
  • 23:36 兵士たちも近くに来て、酸いぶどう酒を差し出し、
  • 23:37 「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言ってイエスを嘲った。
  • 23:38 「これはユダヤ人の王」と書いた札も、イエスの頭の上に掲げてあった。
  • 23:39 十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。
  • 23:40 すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
  • 23:41 おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」
  • 23:42 そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」
  • 23:43 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」