「心が鈍くて信じられない者たち。」ルカ福音書24章19~31節

人が死んでよみがえるということはあり得ないことです。もし、誰かがそれを伝えたならば、その人を異常と見なすでしょう。それは常識外れのことであり、あり得ないことです。キリスト教は、救い主イエスの復活を福音として最も重要なこととします。

宗教には、特有な超常現象や奇跡、そして癒しがあります。それがないならば、単に教えであり、悟りです。つまり、教えや悟りは、人間が論理的に人生を処するためのものであり、宗教はその帰依するものに解決を求めるものです。

ところが、人間は自分の益に繋がるように論理的に処世しながら、宗教にも益を求めるという都合の良い生き方をしようとするのです。新興宗教と古来からある宗教の違いは、そういう生き方を推薦するか、是認するかの強度の違いにもあるように思います。キリスト教の場合には、神学がすべてを包括しているので、教えに従って神の祝福の法則に導かれながら生きることを教えます。その教えの中心が魂の救いなのです。

「心が鈍い」(25)とは、この救いの必要を深刻に考えない人のことです。例えば、新型コロナの感染やウクライナの戦争のことを知っても、自分の人生の在り方やその最後については考えない人のことです。エマオへの途上の二人は、イエス様の復活を聞いても、「これらの出来事すべてについて話し合っていた。話し合ったり論じ合ったりしているところに、イエスご自身が近づいて」(14.15)、語り掛けるのですが、「二人は暗い顔をして立ち止まった。」(17)という状態です。皆さんは、コロナやウクライナのことを暗い顔をして話してはいませんか。それらは、主の預言された終末の始まりであり、私たちが天に携え挙げられる前兆なのです。

「人々は、この世界に起ころうとしていることを予測して、恐ろしさのあまり気を失います。天のもろもろの力が揺り動かされるからです。そのとき人々は、人の子が雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです。これらのことが起こり始めたら、身を起こし、頭を上げなさい。あなたがたの贖いが近づいているからです。」(ルカ21・26-28)。

人は魂が救われなければ罪びとであり、どのように長生きをしてうまく行っても結局のところ地獄なのです。それは自らが永遠のいのち、救いについて考え求めないで生きてきたことの報いです。そして、お話ししてきたように、終末は「サタンが信者をふるいにかける」時代なのです。

「ふるいにかける」(ルカ22・31)ことから残る為には、救いがしっかりとしているということに尽きます。いつの時代にも、どんな人にも試練や苦難はあります。そこから逃れ、生き抜こうという気持ちを持つことは大事です。ただ、その先に永遠があるかないかを問う気持ちが人間の中には植えられているのです。それが宗教性です。この宗教性のない人は、「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。」(25)なのです。そういう人々が平気で犯罪を犯し、自分の利益のために人を犠牲にするのです。私たちは、宗教性の無い人々を決して信用してはいけません。

「預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。」(25)が社会では普通です。それは罪びとだからです。「主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ人。」(詩篇1・2)は、「幸いなこと」(1・1)です。「罪人は正しい者の集いに、立ち得ない。」(1・5)ので、教会には来れないのです。

暗い思いの二人は、イエス様に教わりながらも、イエス様であることに気が付きませんでした。私の人生の中で、教会に来て教えを受けながらも魂が救われ目が開かれるということのなかった多くの人を見てきました。思えば、彼らは救いや真理よりも、自分の心の満足を求めてきたのです。

キリスト・イエスは、私たちの罪の身代わりに十字架に掛かりました。父なる神は、その贖い(代価によって罪を償う。)の証明として、罪の罰としての死からの勝利、よみがえりをイエス様に行いました。

この奥義をサタンは悟りませんでした。殺せば終わり、と考えていたからです。また、「愚かな心の鈍い者」も神の子が十字架に掛かった訳を考えもしません。ところが、この十字架に掛かって死んだ神の子が復活をされたのです。サタンは、その事実を知らせないようにし、愚かな者は知ってもそれを真に受け留めません。

罪に苦しんでいる心の飢え渇いている者だけが、人の罪の身代わりとして十字架に掛かった救い主を信じます。そして、その復活が確かに私たちの希望となるのです。「義人も悪人も必ず復活する」(使徒24・15)ということは、義人は神の国において永遠の喜びのうちに生き、悪人は地獄において永遠の苦しみの中に生きるということを示しているのです。この教えを軽んじてはいけません。

ルカ福音書24章19~31節

  • 24:19 イエスが「どんなことですか」と言われると、二人は答えた。「ナザレ人イエス様のことです。この方は、神と民全体の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。
  • 24:20 それなのに、私たちの祭司長たちや議員たちは、この方を死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまいました。
  • 24:21 私たちは、この方こそイスラエルを解放する方だ、と望みをかけていました。実際、そればかりではありません。そのことがあってから三日目になりますが、
  • 24:22 仲間の女たちの何人かが、私たちを驚かせました。彼女たちは朝早く墓に行きましたが、
  • 24:23 イエス様のからだが見当たらず、戻って来ました。そして、自分たちは御使いたちの幻を見た、彼らはイエス様が生きておられると告げた、と言うのです。
  • 24:24 それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、まさしく彼女たちの言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
  • 24:25 そこでイエスは彼らに言われた。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。
  • 24:26 キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」
  • 24:27 それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。
  • 24:28 彼らは目的の村の近くに来たが、イエスはもっと先まで行きそうな様子であった。
  • 24:29 彼らが、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています」と言って強く勧めたので、イエスは彼らとともに泊まるため、中に入られた。
  • 24:30 そして彼らと食卓に着くと、イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。
  • 24:31 すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。