「喜びと聖霊に満たされ。」 使徒13章44~52節

聖霊に満たされるというと、興奮して力をみなぎらせ、大きな声を張り上げているように思う人も多くいると思います。実際、そういう興行師みたいな伝道者を多く見てきました。ご自分も興奮していますが、会衆も興奮してエクスタシー状態、集団催眠ではないかと、私は祈りながら冷静に見ておりました。悪霊付きと混同して、聖霊に満たされているふりをしているように思われました。聖書には、「偽預言者が大勢現れて、多くの人を惑わします。」(マタイ24・11)とあることが現実化したように思ったのです。

 「聖霊に満たされると倒れる。」という伝道者がいて、セミナーに参加した20数名の牧師に手を置くと、殆どの人が倒れました。私は、倒れても良いと思ったけれど倒れなかったので、講師は私の額を強く押しましたが、それは聖霊の力ではないと思い、立っていました。倒れた牧師たちが、その後聖霊に特別に満たされたようには思われませんでした。却って、辞めていった牧師たちが多くおりました。聖書の真理を探究し、その如くに生きたいと願っております。聖霊に満たされることが目的ではなく、聖霊に満たされたら、どういうことがわかり、どういう力を得るかに関心があります。聖霊に満たされるとは、人格的なことであり、神の言葉に従って生きることが必要なのです。倒れたからといって、聖霊に満たされた証拠になりません。

 今日の聖句では、「この群衆を見たユダヤ人たちはねたみに燃え、パウロが語ることに反対し、口汚くののしった。」(45)という状態でした。それに対して、パウロは福音を「大胆に語った。」(46)。決して感情的になっていないのです。「ところが、ユダヤ人たちは、神を敬う貴婦人たちや町のおもだった人たちを扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、二人をその地方から追い出した。」(50)。攻撃的、感情的になる人々に対して、迎合せず、卑屈にもならず、消極的にもならずに、「彼らに対して足のちりを払い落として」(51)次の町に行くのでした。「弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。」(52)ので、挑発や攻撃に乗らなかったのです。

 「御霊に満たされる。」とは、何でもできるとか、思い通りになるとか、超自然的な神の助けや現われがあるとか、自分が特別な人になるとか、そういうことではないと思います。

多くの人が、霊的に汚れ、罪の影響の中に生きています。そのような人は、神に祈って、或は神に力づけられて、思い通りになるように求めています。そういうことを神が叶えてしまったら、世界は破滅します。

普段、御心に従って生きていない人が、うまく行かなくなるのは当然なことです。ところが、そこで神の助けを求めて神がかりに解決しようとするのが、罪性なのです。そのような暮らしの先にあるのは、神の裁きです。日本人の信仰はそのようなものが多いのです。

何度も言いますが、イエス様が、裁きの時に、「空腹であったり、渇いていたり、旅人であったり、裸でいたり、病気をしていたり」(マタイ25.44)の人を助けなかった人を永遠の刑罰に入れるのは、自称信仰者を退け、悔い改めさせるためでした。「信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。」(ヤコブ2・17)。そして、その人を崩壊させていくのです。

「御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。」(ガラテヤ5・16)とありますが、「御霊に満たされる。」為には、何としても、みことばに従って、良き行いをしなければならないのです。そして、良き行いをしているうちに、御霊の実が育っていくのです。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」(ガラテヤ5・22.23)。

私も妻も、仕事上、毎日、嫌な人々と付き合い、対応しています。祈り、みことばに立って、生きなければなりません。人の世は、「生き馬の目を抜く。」ほど、ずる賢く抜け目のないものです。自分を正当化して、自分の利益の為に他人を利用する人は多くおります。人は、一度、悪にはまり込むと抜け出せなくなり、他人を陥れるしか逃れようがないと考えるのです。そういう中で、信仰によって生き抜くには、いつも祈り、みことばに立ち、喜べる状況がなくても喜びと平安を主に与えられ続けることが必要です。腹が立ったり、苛立ったりすると罠に陥るので、どんなことがあっても、感謝の心を持ち、主に委ねて生きなければなりません。

祈らない人は、そういう悪の誘惑に気が付かずに、罪と堕落の道を歩んでしまうのです。自分の弱さ、欠点、罪深さに負けてしまうのです。「聖霊に満たされる。」ということは、それほど大げさなことではありません。そして、いつも喜び、絶えず祈り、全てのことに感謝しないで達成されることではありません。霊的に目覚めていない人は、このことに無頓着で、外面のことに捕われるので罠に陥るのです。祈っているとか、聖書を読んでいるという、人の目を意識した言い訳は通じません。真に、神を意識した信仰深さが、必要なのです。

使徒13章44~52節

  • 13:44 次の安息日には、ほぼ町中の人々が、主のことばを聞くために集まって来た。
  • 13:45 しかし、この群衆を見たユダヤ人たちはねたみに燃え、パウロが語ることに反対し、口汚くののしった。
  • 13:46 そこで、パウロとバルナバは大胆に語った。「神のことばは、まずあなたがたに語られなければなりませんでした。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者にしています。ですから、見なさい、私たちはこれから異邦人たちの方に向かいます。
  • 13:47 主が私たちに、こう命じておられるからです。『わたしはあなたを異邦人の光とし、地の果てにまで救いをもたらす者とする。』」
  • 13:48 異邦人たちはこれを聞いて喜び、主のことばを賛美した。そして、永遠のいのちにあずかるように定められていた人たちはみな、信仰に入った。
  • 13:49 こうして主のことばは、この地方全体に広まった。
  • 13:50 ところが、ユダヤ人たちは、神を敬う貴婦人たちや町のおもだった人たちを扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、二人をその地方から追い出した。
  • 13:51 二人は彼らに対して足のちりを払い落として、イコニオンに行った。
  • 13:52 弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。