「試練に動じない女性たち。」ルカ福音書24章1~11節

十字架に掛かろうとする「イエスのことを嘆き悲しむ女たちが大きな一群をなして、イエスの後について行った。」(ルカ23・27とありますが、弟子の男たちは「母と傍に立っている愛する弟子を見て、母に『女の方、御覧なさい。あなたの息子です。』(ヨハネ19・26)と言われたヨハネ以外には記録されていません。

男たちは「主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」(ルカ22・33)と啖呵を切ったペテロをはじめ皆が逃げています。男性たちがよく言い、女性たちに要求する「根性」、「意志」、「理性」などが全く役に立たないことがわかります。却って、女性たちは、自らの務めとして義務として、十字架の現場まで、その惨い有様をも耐えてついて行ったのです。

その女性たちは、男たちが勝手なことをし、理屈をこねまわし、損得にも左右される中で、試練や理不尽に慣れ、そういうことに左右されないで、為すべき義務を果たし、世話を焼き、後片付けを淡々と果たしたのでしょう。

その女性たちに、イエス様は「わたしの為に泣いてはいけません。むしろ、自分自身と、自分の子どもたちのために泣きなさい。」(ルカ23・28)と語り、「エルサレムの娘たち」(28)がこの後に体験するローマ軍による大殺戮を恐れなさいと語ります。女性たちは、無実で誠実なイエス様が、奸計により残酷な処罰を受けることを嘆き悲しみますが、罪あるイスラエルの人々は、子どもを含めて自分たちが迫害を受けて苦しむことになるとは思いもよらないことでした。

紀元70年エルサレム神殿は破壊され、エルサレムは崩壊しました。残ったユダヤ人が要塞マサダに籠ってローマ軍に対抗しますが、73年に3年かけて絶壁を埋められたのを見て、閉じこもっていた千人が自決したのです。

ローマ軍は基本的に自治を認め、その風習や宗教を守るのですが、反攻には断固として攻撃します。イエス様を十字架の死まで追い詰めたユダヤ人の指導者や律法学者の選民思考と権力保持の体制が、結局は自らの破滅に至ったのです。ユダヤ人は、イスラエルの地域から追い出されて世界中に離散(ディアスポラ)することになるのです。しかし、そのディアスポラの中でユダヤ人は、自分たちの民族性を保ち、律法を守り、政治的ではない信仰を守って1948年のイスラエル建国まで耐えていくのです。ユダヤ人とは、母親がユダヤ人であるか、ユダヤ教に入信することが必要です。

使用言語、国籍、人種に関わらず、更には宗教にも拘わらず、母親がユダヤ人ならばユダヤ人とするということはユニークですね。父親が生粋のユダヤ人であり、ユダヤ教徒でも、ユダヤ人女性以外と結婚したら、なんとしても子どもをユダヤ教徒にしなければユダヤ人にならないのです。

十字架の傍にいたのは、「イエスの母とその姉妹、そしてクロパの妻マリアとマグダラのマリア」(ヨハネ19・25)です。墓に出向いたのは、「マグダラのマリア、ヨハンナ、ヤコブの母マリア、そして彼女たちとともにいた、ほかの女たち」(10)と「サロメ」(マルコ16・1)を含めて5人以上がいたことがわかります。その間、男たちは、隠れていたのです。

パウロは女性たちをあまり認めていません。独身であったことと、自分の傍に優しい女性がいなかったからかもしれません。ともかく、権威主義的な言動は世の男性達と似ています。私自身も、聖書を読まず、祈り、聖霊に満ちていないと、権威主義的な男になりがちです。女性たちが夫のことを「主人」と呼ぶことは、「女のかしらは男」(Ⅰコリント11・3)からありうるのですが、「男のかしらはキリスト」(同)を忘れると危険です。

つまり、女性たちは、仕えること、従うことを風習としても、社会的にも、力関係でも身に着けるのですが、男性たちは、教えられ訓練されないと傲慢になる要素が強いのです。「信仰のふるい」というものは、どの信仰者にもありうるのです。しかし、その「信仰のふるい」に際して、罪を悔い改めて謙遜になっていくかどうかで自らの道を決めるのです。と先週語りましたが、傲慢の要素は男性の方が強いので、気を付けなければなりません。

 但し、パウロは、「女が教えたり男を支配したりすることを許しません。むしろ、静かにしていなさい。」(Ⅰテモテ2・12)というような怖い女性に出会ったのでしょうね。パウロは命令形で女性たちに夫に従うことを要求していますが、「自分の妻を自分のからだのように愛さなければ」(エペソ5・28)、妻からは反抗されてしまうような気がします。

 ともかく、十字架にも復活にも立ち会った女性たちに対して、男たちはどちらも逃げてしまったのですから、実は頭が上がらないのです。傲慢で自分勝手な男たちも、傍についていてくれる女性がいなければ、虚しく孤独で、暴走してしまうのです。5月は、男性方、女性に優しくすることを心掛けましょう。特に、母親に優しく大事にしましょう。

ルカ福音書24章1~11節

  • 24:1 週の初めの日の明け方早く、彼女たちは準備しておいた香料を持って墓に来た。
  • 24:2 見ると、石が墓からわきに転がされていた。
  • 24:3 そこで中に入ると、主イエスのからだは見当たらなかった。
  • 24:4 そのため途方に暮れていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着た人が二人、近くに来た。
  • 24:5 彼女たちは恐ろしくなって、地面に顔を伏せた。すると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。
  • 24:6 ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。
  • 24:7 人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」
  • 24:8 彼女たちはイエスのことばを思い出した。
  • 24:9 そして墓から戻って、十一人とほかの人たち全員に、これらのことをすべて報告した。
  • 24:10 それは、マグダラのマリア、ヨハンナ、ヤコブの母マリア、そして彼女たちとともにいた、ほかの女たちであった。彼女たちはこれらのことを使徒たちに話したが、
  • 24:11 この話はたわごとのように思えたので、使徒たちは彼女たちを信じなかった。