「イエス・キリストのご生涯。」 ルカ福音書2章4節~17節

神の子、キリストが人となって生まれたのは、貧しい若夫婦の旅の途中で、家畜小屋に飼い葉桶を寝床とする真夜中でした。人間としては、最も惨めで情けない誕生の時ですが、だからこそ、父ヨセフは母マリヤを大事に世話し、幼子を哀れと思う必死な愛情に満たされていました。 人間的には、不幸な状況であっても、そこにいる人の状態によって幸せにもなり、不幸にもなります。この親子は幸せでした。

 他には誰もおらず、暗い家畜小屋でしたが、しばらくすると天使たちに「救い主がお生まれになった」(11)ことを告げられた羊飼いたちが集まってきて礼拝しました。「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」(14)。羊飼いたちが「御心に適う人々」だったのです。現代社会の幸福の基準は、経済や富です。しかし、この時、神は、ベツレヘムにいた富んだ人々、平穏な人々が「御心に適う」とはしていません。

 誕生後40日の聖めの期間が満ちて、両親はエルサレムに行き、献児式をしますが、その時に「シメオンは幼子を腕に抱き」(ルカ2・28)、「あなたが万民の前に備えられた救いを」(31)と、神をほめたたえました。そして、マリヤに「あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります。それは多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです。」(35)と警告します。イエス様の受難と、それを通して人々の心のうちが現れることを預言したのです。預言者アンナも「神に感謝を献げ、エルサレムの贖いを待ち望んでいた全ての人に、この幼子のことを語った。」(38)。

 住民登録の為に、親子3人はベツレヘムに戻っていたのでしょうか。そこに東方の博士たちが来て、「幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」(マタイ2・11)。その後、天使が「ヘロデがこの幼子を探し出して殺そうとしています。」(13)と伝えるので、2年間、エジプトに避難します。ヘロデの死後に帰国し、ナザレに住みます。

 この間、神の子の霊の宿ったイエス様と言えども、人間的には乳児なので、意識や悟りはないはずです。それでも、シメオンやアンナなどの霊的で敬虔な神のしもべには、イエス様の霊的な存在はわかったのです。神が人となったことは、ご自分の大能を捨てて「ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられ」(ピリピ2・7)たことなのです。つまり、人として生まれてから、イエス様は神の大能を行使できない無力な存在となられたのです。

 ナザレでは、「幼子は成長し、知恵に満ちて逞しくなり、神の恵みがその上にあった。」(ルカ2・40)とあります。人間でも、その心身の成長には霊性が重要です。親が愛を持って育て、教え、共に過ごし、穢れた生活を営まないことは大事です。

 「イエスの両親は、過越しの祭りに毎年エルサレムに行っていた。」(ルカ2・41)。成人の儀式バル・ミツワは13歳になった男子ですが、12歳のイエス様は、3日間も一人残って、「宮で教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり、質問したりしておられ」(46)、「イエスの知恵と答えに驚いていた。」(47)。両親の心配に対して、「わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」(49)と応えられています。イエス様は、既にご自分の神性を自覚しておられ、ご自分の働きの準備をしておられたのです。「イエスは神と人とに慈しまれ、知恵が増し加わり、背丈も伸びて行った。」(52)。

 イエス様は神であるから学ぶ必要はないと捉えてはいけません。「キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、完全な者とされ」(へブル5・8.9)と、努力されていたことがわかります。

 「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(へブル4・15.16)。

 努力する習慣を持たない人々が、次第に自らの生活を崩壊させていくのをみております。最近は、部屋に籠ってSNSをして、自分と考え方の似ている人を探し出し、その仮想交流で満足している若い人が多くいるようです。子どもたちも、ゲームやスマホに時間を掛け、勉強や努力をしないことが多いようです。それはサタンの惑わしに乗ってしまったからでしょう。人との交流に失敗したり、疲れたからかもしれません。

 イエス・キリストは、わざわざ自らの大能を捨て、長い時間を掛けて人としての苦労を味わいました。だからこそ、私たちを執り成してくださるのです。私たちは、まず、自らの怠惰を改め、子どもたちや周囲の人々の罪による怠惰を助けてあげる必要があるでしょう。

 キリストの生誕を祝いながら、その犠牲に応えることを考えてはいかがでしょうか。

ルカ福音書2章4節~17節

  • 2:4 ヨセフも、ダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
  • 2:5 身重になっていた、いいなずけの妻マリアとともに登録するためであった。
  • 2:6 ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、
  • 2:7 男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
  • 2:8 さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。
  • 2:9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
  • 2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。
  • 2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
  • 2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」
  • 2:13 すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。
  • 2:14 「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」
  • 2:15 御使いたちが彼らから離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは話し合った。「さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう。」
  • 2:16 そして急いで行って、マリアとヨセフと、飼葉桶に寝ているみどりごを捜し当てた。
  • 2:17 それを目にして羊飼いたちは、この幼子について自分たちに告げられたことを知らせた。