「人生は覚悟で決まる。」 ルカ1章26~38節

天使ガブリエルが、突然マリヤのところに来て、「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」(28)と言われます。驚いているマリヤに対して、更に人間的にはありえない話を続けます。

胆力がよほどあるのでしょう。胆力とは、「事にあたって、恐れたり、尻ごみしたりしない精神力。ものに動じない気力。肝っ玉。」とあります。このマリヤのことを考え祈る時に、マリヤの胆力の凄さを思います。

マリヤは16歳くらいだったと思われます。当時の婚約は、結婚と同等なものとして扱われ、婚約期間中に不倫によって妊娠したら石打の刑で殺されます。女性が一人で生きて行けるような社会状況ではありません。家族や社会からの非難、攻撃も当然覚悟しなければなりません。一生の苦労、迫害、孤独を抱え込むことになります。

御使いは、「恐れることはありません。」と言いますが、それは神の全能と配慮、はかりごとを知っているからです。人生は、恐れるか、恐れないか、で分かれます。恐れるということは、その恐れるようなことを考えないで、実際には避けて生きることを含みます。

「失敗したら」、「怪我や病気をしたら」、「破産したら」、「馬鹿にされたら」、「非難されたら」などと、いろいろなことを恐れ、何もしない人は多いものです。私は、高校受験は単願で落ちたら働かなければなりませんでした。大学もそんなものでしたから、しばらくは不合格だった夢を見たものです。ところが、信仰をもってから大学院の試験に落ちても、殆ど動揺しませんでした。すべてが神の御手の中にあると信じていて、万事益になると思うようになっていました。我ながら、信仰とは凄いものだと思ったものです。結局、それで妻と卒業が一緒になり、神学校に行くことになるわけです。

「神から恵みを受けたのです。あなたは身ごもって、男の子を産みます。」とは、独身の処女にとっては、恵みどころか大変な試練になります。「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」これは当然の疑問です。それに対して、「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。」、つまり、聖霊の力によってマリヤの卵子が細胞分裂をし、人間として成長を始めると言うのです。信仰を持っていても、99%の女性は「冗談じゃない!」と拒むでしょう。むろん、歴史上ただ一人、マリヤにしか起こらなかったことです。そして、他の人では、たとえ受け入れたとしても、できなかったことなのです。

「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」。自らを神の奴隷として意識し、どのようなことも神の御心のままになるようにと受け入れ、そして、自分に予想される多くの艱難辛苦を覚悟してしまったのです。マリヤは、恐れない、という程度ではなく、恐れを生み出す現実と将来を敢えて受け入れたのです。

マリヤの行動を自分にとっては、どのようなことになるのか祈り考えました。私たち夫婦は、経済的にも社会的にも仕事にも健康にも、殆ど問題はなく、順調に祝福されています。このまま生きていけば、人にも褒められ、うらやましがられるかと思います。ただ、神の僕として生きることを決心した献身者としては、堕落が始まるような気がしているのです。既に数年は、祈りながら神に問うてきました。

そして、自分たちの働きを更に増やし、自らの富を神に献げることを計画したのです。新会堂建設を計画しましたが、教会員の皆さんに、献金や犠牲を強いるつもりは全くありません。それぞれが祈りの中で歩んでくれればそれで良いのです。ただ、私たち夫婦は、「主のはしため」として、残りの人生を掛けて会堂を献げ、教会の働きを拡大することが使命だと祈って導かれたのです。

「誰でもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。」(マタイ16・24.25)。

信仰が薄いとか、深いとか、そういう認識は神の前に意味がありません。神を信じることに、いのちを掛けているかどうかが、大事だと思います。

コロナの後遺症で苦しみましたが、治ることよりも、神の御心と為すべきことを祈りました。完全な癒しなどを求めていたら、いつまで経っても、誘惑に打ち勝てません。大事なことは、自分の思い通りの快適な生活ではなく、神に従って生きることです。皆さんに癒しの祈りを求めたことは、牧師として失敗だったと反省しています。試練や苦難は人生には付き物です。そんなことに左右されていたら、神に従う道を踏み外してしまいます。

ルカ1章26~38節

  • 1:26 さて、その六か月目に、御使いガブリエルが神から遣わされて、ガリラヤのナザレという町の一人の処女のところに来た。
  • 1:27 この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリアといった。
  • 1:28 御使いは入って来ると、マリアに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
  • 1:29 しかし、マリアはこのことばにひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。
  • 1:30 すると、御使いは彼女に言った。「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。
  • 1:31 見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。
  • 1:32 その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
  • 1:33 彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」
  • 1:34 マリアは御使いに言った。「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」
  • 1:35 御使いは彼女に答えた。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。
  • 1:36 見なさい。あなたの親類のエリサベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています。不妊と言われていた人なのに、今はもう六か月です。
  • 1:37 神にとって不可能なことは何もありません。」
  • 1:38 マリアは言った。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」すると、御使いは彼女から去って行った。