「サタンがふるいにかける。」ルカ福音書22章31~40節

一年中、スポーツが行われています。そこでは、優劣や勝敗が争われています。戦争という命が犠牲になる戦いの代わりに、競技という形で闘争が行われているのです。更に形を変えて、権力闘争や企業間の競争、そして個人間の優劣や比較に繋がります。

人間性が罪の下にあり、自分勝手であり、楽をしたいという状況の中で、どうしても刺激や意識付けが必要になってくるのです。つまり、罪びとには競争や戦争は必然的なものとなっており、それを理性や協調によって抑えているのです。

サタンは訴える者であり、神の裁きの正当性を否定しようとし、神の義に掛けてサタンを罰することはできないと訴えるのです。その争点が人間の義なのです。「サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。」(31)とは、「人間は救いに値しない、神の義に応じることはない」というものです。ですから、自己中心で罪深い人間が、ふるいにかけられて皆が落ちてしまうならば、誰も救われない、そして、罰することはできない、ということで、サタンさえも罰することはできない、となるのです。

主イエスでさえ、「わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。」ということしかできないのです。人間には、自由意志があり、神を信じ罪と戦うか否かは、その人自身の問題なのです。

神がいるなら、どうしてこんな悲惨なことが起こるのかと、神に文句を言う人がいます。それは、罪深い人間が情欲に負けて犯したことなのです。自然でさえ、人間の理不尽な破壊や汚染、そして干渉によって被害を受けて崩壊或は荒れ狂うものとなっているのです。

「義人はいない。悟る者はいない。神を求める者はいない。善を行う者はいない。」(ローマ3・10-12.)とあるように、その人の能力や品性で神を求めることはないのです。ただ、後悔することはあり、罪を認めることはあります。

イエス様を十字架に掛けて殺す計画は、サタンのうちにあり、罪人たちに吹き込んだのです。サタンは、全能でも全知でもありません。殺せば勝利であると考えたのです。

そのような時、無防備であれば、皆殺しに遭い、人間であれば敗北であり、殺され、奴隷となります。ですから、イエス様はご自分が共にいない時、「しかし今は、財布のある者は財布を持ち、同じように袋も持ちなさい。剣のない者は上着を売って剣を買いなさい。」と戦う勇気を持つことを教えています。ウクライナでも経済力がなく、戦う気持ちがなければ、プーチンの思うままになります。

「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5・8)。「敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいた」(同5・10)。神とキリストの思いは、人間の罪を御子が十字架の死で負うということでした。これは、サタンにわかるはずがありません。そして、その十字架に掛けるほどに自己中心な罪びとが、それを悔い改めることによってこそ救われるということなのでした。

「わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。」(32)。「誘惑に陥らないように祈っていなさい」(40)と言われたのはどういうことなのでしょうか。

神は人の心は変えることはできないけれども、人に示唆を与えたり、物事を起こしたりすることはできるのです。だから、イエス様も祈るだけでなのです。自由意志とは、自分以外の誰にも左右されないで自分で決めることです。だからこそ、罪を悔い改め、神を信じるということが尊いのです。そして、人を赦し、自分勝手に生きるという誘惑に陥らないように注意しなければならないのです。

私たち自身が祈るということは、神の御霊、聖霊に自らを委ねるということです。祈りの中で聖霊様が私たちに語り掛けてくださり、導いてくださいます。しばしば、「頑張れ」と声を掛けますが、頑張っても人間の能力は知れたものです。結局のところ、祈れなかった弟子たちは、イエス様が捕らえられると、恐れて逃げてしまうのです。

他の人の為に祈ると、神が配慮してくださいます。しかし、自ら砕かれて祈れないと、神の御霊に導かれることはありません。「絶えず祈りなさい。」(Ⅰテサロニケ5・17)。絶えず祈り、神に導かれなければ、罪や誘惑から守られることはないのです。

ルカ福音書22章31~40節

  • 22:31 シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。
  • 22:32 しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
  • 22:33 シモンはイエスに言った。「主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」
  • 22:34 しかし、イエスは言われた。「ペテロ、あなたに言っておきます。今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」
  • 22:35 それから、イエスは弟子たちに言われた。「わたしがあなたがたを、財布も袋も履き物も持たせずに遣わしたとき、何か足りない物がありましたか。」彼らは、「いいえ、何もありませんでした」と答えた。
  • 22:36 すると言われた。「しかし今は、財布のある者は財布を持ち、同じように袋も持ちなさい。剣のない者は上着を売って剣を買いなさい。
  • 22:37 あなたがたに言いますが、『彼は不法な者たちとともに数えられた』と書かれていること、それがわたしに必ず実現します。わたしに関わることは実現するのです。」
  • 22:38 彼らが、「主よ、ご覧ください。ここに剣が二本あります」と言うと、イエスは、「それで十分」と答えられた。
  • 22:39 それからイエスは出て行き、いつものようにオリーブ山に行かれた。弟子たちもイエスに従った。
  • 22:40 いつもの場所に来ると、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と言われた。