「諦めか、望みか?進化論か、創造論か?」創世記17章16~19節、へブル11章11.12 櫻井圀郎協力牧師

今年の七月、国連のグテーレス事務総長は、「地球温暖化の時代は終わり、地球沸騰化の時代が到来した」と、衝撃的な発言をしています。なるほど、連日三十五℃越えが当たり前であったこの夏の状況からも、海水温度が三十℃に達したという状況からも、確かに、もう温暖のレベルではなく、沸騰の段階に達したな、と実感されます。沸騰すれば、早晩、爆発、溶解、蒸発の段階に至ることでしょう。もはや地球消滅の時代を迎えているかの如くです。

一方では、好ましいこともありました。蝿や蚊がいなかったことです。しかし、考えてみれば、蝿や蚊がいないのは確かに好ましいことではありますが、それが何かとリンクしてはいないか心配されます。おそらく、何らかの生態系の異常から生じた現象であり、さらに他の生態系に影響を与える現象でしょう。延いては、我々人間の生存にも影響することになるのではないかと心配されます。

南海トラフ、首都直下型、富士山噴火なども現実問題として想定され、行政による防災や被災者対策が練られています。私も防災会議に出席していますが、対策は部分的な災害でしかありません。災害発生後、避難者をどう援護し、どう救済するかということでしかないのです。というか、その限度を超えては、手が出せないということでしょう。

私も考えます。事務所にいる時に大地震が発生したら、どこへ避難すべきか。そもそも避難できるか。避難するのが正しいか。ビルの外のほうがより危険でしょう。日本橋あたりの標高は海抜三メートルですから、津波が来れば完全に飲み込まれてしまいます。富士山の噴火が起これば、火山灰で電気もデータ通信も止まってしまい、水源も汚染され、呼吸すらも困難になってしまうでしょう。今や、真剣に避難を考えるべきです。といっても、行政の言うような非難を言うのではありません。もはや地上での避難では事足りません。地球崩壊の危機なのですから。

みなさん、本気で、本当の避難先のことを考えていますか。終末への備え、今まで、嫌というほど聞いてきたことでしょう。あえて、今日も語ります。信仰者であれば、世界の終末も、天国と地獄も、信仰により義とされることも、義とされた者だけが天国に招かれることも、そのために最後の審判があることも、知っているでしょう。

しかし、本気で、基督の審判を受ける準備ができているでしょうか。主イエスは、福音書の中で、様々な喩えを用いて、審判の厳しさを説いています。確かに、信仰があれば救われるのですから、易しいことでしょう。信仰があれば、です。私たちに、それに叶う信仰があるでしょうか。十字架の上で主イエスの受けられた苦痛と恥辱、それに見合うだけの信仰とは、どんなものでしょうか。

ついぞや、信仰を考えて悲惨になってしまいます。そこで、視座を変え、本日は、「信仰の父」と呼ばれるアブラハムの一件を通して、信仰とはについて考えてみたいと思うのです。題して、「諦めか、望みか」です。

 本日の御言葉、創世記十七章十六節では、神がアブラハムに言います。「我、サラを祝福し、厳にサラから汝に男児を与う。」とです。それに対する、アブラハムの対応は、二十一世紀の私たちのようです。神の御前ですから、神のお言葉ですから、平れ伏すには平れ伏すものの心の中では呟いています。「百歳の男に、子が産めるものか。九十歳の女サラも出産などできるものか」とです。アブラハム、そしてサラも同様ですが、もはや子は産めないというのは、当時でも、世の常識であったのでしょう。むしろ、神の言葉の方が非常識です。アブラハムが、そしてサラも、心の中で笑い、バカにしたのも納得できます。

 本日は、敬老礼拝です。「敬老の日」、法律上の規定は、「多年にわたり社会に尽くしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」というものです。「尽くしてきた」という過去形が「老人」を規定しています。もはや「過去の人」という意味でしょう。

 しばしば、老人の特質として、過去のことばかりを語ると言われます。若年層の視点で、老人を嘲弄した言い方でしょう。会社では「老害」と言われ、地域社会では厄介者扱いされ、政治の世界では長老政治と言われて排斥される、それがこの世における老人の扱いです。「敬老」というのも、嘲笑ではないでしょうか。

 それがしかし、老人自身の自己認識にもなっていないでしょうか。その点が本日の課題です。「自分はもう歳だ、もう終わっている」そういう諦めの境地に、自分自身で置いてはいないでしょうか。日本社会ではそのように扱われてきました。「もう歳なのだから」と。もっとも、アブラハムだってそうだったのですから、普通なのかもしれません。

 「諦め」が老人のあるべき姿でしょうか。

 それに対する神の言葉は、「否、汝の妻サラが汝に男児を産む」と言うものでした。

 ちなみに、アブラハム(当時はアブラム)とサラ(当時はサライ)との間には子どもが長年できませんでした。そこで、十六章三節、サラはアブラハムにハガイというエジプト人を第二の妻として連れてきます。そして、アブラハムとハガイとの間には男の子が生まれています。その子の名前はイシュマエルといい(十六章十五節)、アブラハムの長男なので、イスラームでは、アブラハムの正統の子孫と考えられています。ムハンマド(モハメット)はイシュマエルの子孫であると言い、アラブ人の多くもイシュマエルの子孫を名乗っています。

創世記17章16~19節

  • 17:16 わたしは彼女を祝福し、彼女によって必ずあなたに男の子を与える。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、もろもろの民の王たちが彼女から出てくる。」
  • 17:17 アブラハムはひれ伏して、笑った。そして心の中で言った。「百歳の者に子が生まれるだろうか。サラにしても、九十歳の女が子を産めるだろうか。」
  • 17:19 神は仰せられた。「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼と、わたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。

へブル11章11.12節

  • 11:11 アブラハムは、すでにその年を過ぎた身であり、サラ自身も不妊の女であったのに、信仰によって、子をもうける力を得ました。彼が、約束してくださった方を真実な方と考えたからです。
  • 11:12 こういうわけで、一人の、しかも死んだも同然の人から、天の星のように、また海辺の数えきれない砂のように数多くの子孫が生まれたのです。