「私はあなたの前に罪ある者となります。」 創世記43章6~14節

多くの人達が、ヨセフのまだるっこい働きかけを理解できないようです。最初から、兄たちに自分の正体を伝え、彼らのやったことについて悔い改めや反省を促せば良いではないかと考えるのです。

ヨセフは権力もあり、兄たちも自らの犯罪については言い逃れしようがないので、確かに表面上は自分たちの過ちを認めて悔い改めるでしょう。自分の罪を認め、救いを求めて悔い改めることによって、私たちもクリスチャンになりました。しかし、実際には、救いに至る悔い改めではなく、知的に理解しているだけの人が多いものです。

「神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。見なさい。神のみこころに添って悲しむこと、そのことが、あなたがたに、どれほどの熱心をもたらしたことでしょう。」(Ⅱコリント7・10)。

ヨセフは、長い監獄生活で、人の心が頑なであり、権力には容易におもねるけれども、悔い改めや反省などは殆どしないことを悟りました。聖霊に満たされていたからこそ、聖霊に導かれない人々の心が欲望に導かれて平気で嘘や誤魔化し、そして感情的になることに気が付いたのです。彼らは、心を装い、自分が善良で誠実であるようにしているのですが、自分にとって都合が悪い時には、その素性が現れるのです。

「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。それにより、私はあなたの掟を学びました。」(詩篇119・71)。

思い通りにならない時に、その人の素性がわかります。簡単に本心を明かし、信頼を寄せると、思いも寄らない仕打ちを受けたり、騙されたりすることがあります。試練や苦難に遭い、批判やいじめを受け、或は事故や病気や災害で忍耐を強いられる時があります。そんな時に、どのように対応し行動するかで、その人の真価が問われるのです。

母親や女性たちの子育てを見て、父親と違うパターンを知ります。母親は、あらかじめ事故や病気や人との軋轢がないように心を配ります。父親は、どんなことが起こっても、諦めずに対応することができるような大人になるように躾けようとします。母親は自分の手の内で子育てをし、父親は自分の手の内から出た時の為に子育てをします。

私は、叱る時は厳しかったです。理由を問うことは許しませんでした。自分で納得したら罰を受け容れるとか、謝るということでは、従順は身に付きません。叱られた理由は、自分で考えてそれに対処しなければならないのです。理由を求める人は従順が身に付かず、うつになる傾向があります。怒られたら、直ぐに謝れる人は、人に愛されます。

現代社会は、自己主張と納得を求めます。それは信仰とは逆な傾向です。「この方によって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。御名のために、すべての異邦人の中に信仰の従順をもたらすためです。」(ローマ1・5)。見えない神、語らない神を信じて生きるということは、神の配慮と愛と義を信じて、どこまでも誠実に生きるということです。納得したことだけを信じて生きるのは、信仰ではなく打算です。「信仰は望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(へブル11・1)。

 ヨセフは、兄たちに、神を信じる誠実な心を持つために、しっかりと自らがどうしようもない罪の存在であることを自覚して悔い改めてほしかったのです。この神の前の悔い改めがなければ、人は自分を正当化して、神や人を責め批判することになるのです。更には、その人生が形骸化するのです。

ユダは、「私自身があの子の保証人となります。私が責任を負います。もしも、お父さんのもとに連れ帰らず、あなたの前にあの子を立たせなかったら、私は一生あなたの前に罪ある者となります。」(9)と、自らの罪を明らかにします。

自分に罪人の自覚のない人は、平気で人を批判し攻撃します。ユダは、死んでしまったと思われる弟ヨセフに対して罪を自覚し、自らの命を懸けて償いをしようとするのです。

私の息子が私のミスで大きな火傷を負い、そしてぐれてしまった時、私は家庭裁判所の裁判官に、「正すことはできないけれど、親としてできることは、この息子の全ての犯罪の賠償と責任を負います。」と言いました。そして、その時、神が私を救うということは、私の全ての罪過ちの責任を神が取ってくださることなのだと、改めて気が付きました。

 犠牲を覚悟しなければ前進することはできません。ユダは、ヨセフの深謀遠慮の中でしっかりと犠牲と保証の奥義を悟ったのです。イエス様は、「贖いの代価として、自分のいのちを与える為に来たのと、同じようにしなさい。」(マタイ20・28)と弟子たちに教えました。

 それを理解せず、弟子たちは単なる教えの理解によって神の国に入ろうとしていたのです。そして、十字架に掛かることの意味を否定し、犠牲になることを愚かと捉えたので、イエス様を裏切ったのです。ヨセフの働きは、イエス様の教えと非常に近いものがあり、それをユダは身に着けて、ダビデを生み出す王家の家系となったのです。

創世記43章6~14節

  • 43:6 イスラエルは言った。「なぜ、おまえたちは、自分たちにもう一人の弟がいるとその方に言って、私を苦しめるようなことをしたのか。」
  • 43:7 彼らは言った。「あの方が私たちや家族のことについて、『おまえたちの父はまだ生きているのか。おまえたちには弟がいるのか』としきりに尋ねるので、問われるままに言ってしまったのです。『おまえたちの弟を連れて来い』と言われるとは、どうして私たちに分かったでしょうか。」
  • 43:8 ユダは父イスラエルに言った。「あの子を私と一緒に行かせてください。私たちは行きます。そうすれば私たちは、お父さんも私たちの子どもたちも、生き延びて、死なずにすむでしょう。
  • 43:9 私自身があの子の保証人となります。私が責任を負います。もしも、お父さんのもとに連れ帰らず、あなたの前にあの子を立たせなかったら、私は一生あなたの前に罪ある者となります。
  • 43:10 もし私たちがためらっていなかったなら、今までに二度は、行って帰れたはずです。」
  • 43:11 父イスラエルは彼らに言った。「それなら、こうしなさい。この地の名産を袋に入れ、それを贈り物として、その方のところへ下って行きなさい。乳香と蜜を少々、樹膠と没薬、ピスタチオとアーモンド、
  • 43:12 また二倍の銀を持って行きなさい。おまえたちの袋の口に返されていた銀も、持って行って返しなさい。おそらく、あれは間違いだったのだろう。
  • 43:13 そして、弟を連れて、さあ、その方のところへ出かけて行きなさい。
  • 43:14 全能の神が、その方の前でおまえたちをあわれんでくださるように。そして、もう一人の兄弟とベニヤミンをおまえたちに渡してくださるように。私も、息子を失うときには失うのだ。」