「ヤコブはファラオを祝福した。」 創世記47章5~13節

「ヤコブはファラオを祝福し、ファラオの前から立ち去った。」(10)という高齢の信仰者ヤコブの堂々とした姿が非常に好きです。私自身は、しばしば「偉そうだ。顔が怖い。」などと言われてしまい、反省しておりますが、「堂々とクリスチャンとして生きる。」という思いからのものです。謙遜は大事ですが、卑屈やへつらいはするまいと若い頃から心に決めておりました。

「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」(出3・15)として、個人を名指しで顕現された神は、ヤコブの人生に介入されて大いなる御業を成し遂げられました。私自身は、困難な時に「我が神、柏崎久雄が仕えている神」として、神に助けを乞います。自分の人生を神に明け渡して神に従っているという自覚がなければ、そしてそれが真実でなければ、そのような祈りはできず、またかなえられないものです。もし、私が自分勝手に主の名を呼んだら、「主の名をみだりに口にする者を罰せずにおかない。」(申命記5・11)という罰を覚悟しています。

ヤコブは、「私の生きてきた年月はわずかで、いろいろなわざわいがあり、私の先祖がたどった日々、生きた年月には及びません。」(9)と自分の人生を振返っています。祖父アブラハム、父イサクに比べると、我欲が招いた災いを悔いるのです。アブラハムは信仰の父と呼ばれ、イサクは従順の極みを見せた人です。ヤコブは、双子の弟として生まれ、兄に負けまいと競争心や自負心を強く持ち、苦労の中で知恵を尽くして生きた人です。ヤコブは私たちと似ているところが多いでしょう。しかし、ヤコブの特徴は試練や苦難の時に力と知恵を尽くして解決を模索し、そして神に誓願した人です。悔い改めは速やかになし、罰を覚悟し受け容れ、貪欲なラバンの下で20年間も辛抱した忍耐の人です。

現代人の特徴として、自分の希望(野望)を叶えようと努力し、宗教まで利用しようとする人がいることです。新興宗教にはまる人々は、殆どそのタイプで、却って人生を崩壊させてしまいます。その理由は、人との交流が少なく、考え方が浅薄になっているからだと思います。

他方、希望も持たず、その日を楽に過ごせればそれで良いという人々も増えているようです。ストレスの中で生きてきたので、そこから解放されたいと願っているのかもしれません。

どちらも、自分中心の生き方であって、神がその人生を裁くというこなど考えてもみないでしょう。宗教者が、その信仰を世的努力の下においてしまったことも影響しているのかもしれません。現代社会で、信仰を第一にしている人は非常に少ないのです。

間違いなく、アブラハムは信仰を第一にして生き、イサクも同様です。ヨセフもそうです。ヤコブは、神の義を第一にするよりもむしろ生き抜くことを優先し、それが故に不幸であったことに気が付いたのです。愛するヨセフと長年生き別れになったのは、息子たちを差別してしまったこと、妻を二人、妾を二人持ってしまい、その家族を信仰によって治めなかったことの災いを悟ったのです。

そのような懺悔の中で神の祝福により、今の祝福があることに気が付いたので、エジプトの偉大な王ファラオさえも、「祝福した。」(7)のです。

ファラオはヨセフが「神の霊が宿っている人」(41・38)として認め、「エジプト全土を支配させた。」(43)。ヨセフの働き以前に、神が世界を治めていることを悟っていたのです。

 クリスチャンが日常生活の中で、神の支配を信じて生きるよりも、世の盛衰や自然現象に一喜一憂しているのでは、世の人は神を恐れ神を信じて生きることはないでしょう。

 この夏は長崎の五島列島にキリシタンの足跡を調べに行く予定でしたが、3月に祈りの中で支障があると感じて北海道に変更しました。台風や豪雨に妨げられることなく、北方四島や自然と社会、そして教会を見学することができました。もし、私が祈り無くして自分の希望と都合を変えずに一喜一憂していたら、殆どうまく行かなかったと思われます。

 ヨセフは、最初から家族を「ゴシェンの地に住んで、私の近くにいてください。」(45・10)と計画し、「飢饉はあと五年続きます」(11)と聖霊に導かれて悟り、的確な指示を出しています。そして、ファラオに「ゴシェンの血に住まわせてください。」(47・4)と許可をいただいています。

 神の御霊に導かれることがどんなに大きなことか、多くの祝福を受けることか、気が付かなければなりません。

 意地や頑なさが抜けなければ、神の祝福を受けることはできません。自分のあり方や生き方を変えない人が多くおります。

 明らかに病気や不健康の兆候が表れているのに、「自分はこれまで健康で生きてきたからこんなものだ。」と検査もせずに平気でいる人も多くおります。病気になってからでは遅いので、検診というものがあるのに、自分の不調を知りたくない自覚したくないと死んでいくのです。

 ヤコブは、自分の過ちを認め、自分の判断や知恵は愚かなものであったことを認めたからこそ、神の祝福こそ大事だと悟ったのです。そして、大胆にもファラオを祝福したのです。祝福の祈りを軽んじてはいけません。お世辞のように考えるのは神への冒涜です。

創世記47章5~13節

  • 47:5 ファラオはヨセフに言った。「おまえの父と兄弟たちが、おまえのところに来た。
  • 47:6 エジプトの地はおまえの前にある。最も良い地に、おまえの父と兄弟たちを住まわせなさい。彼らをゴシェンの地に住まわせるがよい。彼らの中に有能な者たちがいるのが分かったなら、その者たちを私の家畜の係長としなさい。」
  • 47:7 それから、ヨセフは父ヤコブを連れて来て、ファラオの前に立たせた。ヤコブはファラオを祝福した。
  • 47:8 ファラオはヤコブに尋ねた。「あなたの生きてきた年月は、どれほどになりますか。」
  • 47:9 ヤコブはファラオに答えた。「私がたどってきた年月は百三十年です。私の生きてきた年月はわずかで、いろいろなわざわいがあり、私の先祖がたどった日々、生きた年月には及びません。」
  • 47:10 ヤコブはファラオを祝福し、ファラオの前から立ち去った。
  • 47:11 ヨセフは、ファラオが命じたとおりに、父と兄弟たちの住まいを定め、彼らにエジプトの地で最も良い地、ラメセスの地に所有地を与えた。
  • 47:12 またヨセフは、父と兄弟たちとその一族全員を、扶養すべき者の数に応じて、食物を与えて養った。
  • 47:13 飢饉が非常に激しかったので、全地で食物がなくなり、エジプトの地もカナンの地も飢饉によって衰え果てた。