「立派で荘厳な哀悼の葬儀。」 創世記50章1~12節

ヤコブの葬儀は壮大なもので、その一団を見た人々は大層驚いたものでした。葬儀を形骸化し、人生にとって意味のないものとして示してしまったのは日本の仏教の責任が大きいでしょう。ウズベキスタンでイスラム教の墓を見ました。丸く土盛をしているだけで遺体を棺に入れ埋め、古くなると平たくなり、次の遺体を埋葬します。葬儀や墓によって非常に重要な宗教教育をしています。

宗教的には、どの宗教でも本来、土葬が望ましいのですが、経済的・衛生的・処理的・その他の理由で日本では非宗教的な火葬が営まれています。遺体を焼却する時の絶望的な悲しみは、無神論的な洗脳のような気がします。葬儀や埋葬は宗教にとって非常に大事なもので、水葬・風葬・樹木葬・鳥葬などがありますが、葬儀を執り行わない希望しないということは、宗教者としては不適切です。

葬儀は、日本でも親密なものでしたが、コロナによって崩壊してしまいました。最近は、家族葬や直葬が多くなってきました。葬儀が、故人が物理的になくなったという対応の仕方になり、人間としての尊厳への配慮がなくなってしまっています。通夜も、単に昼間は仕事で参加できないからなどというような単に便宜的なものになってしまいました。本来は、故人を偲んで家族や友人知人が名残を惜しみ、その足跡を偲ぶ大事なものでした。葬儀社任せになったからでしょうが、高齢化に伴い葬儀社は繁盛するでしょう。牧師が関わらないと空疎なものになります。

当教会では、教会堂で葬儀できるのは教会員だけであり、準会員には葬儀場で執り行ってもらうことになります。むろん、いろいろな事情で会堂では執り行えない場合もありますが、教会員の葬儀には、教会員の協力や奉仕は、神の家族としての当然なものです。教会に対する生前の関係が希薄な者に対して、天国に迎えられた保証のような葬儀をすることは、建前に捉えられた偽善的なものになると思います。葬儀というものは、非常に大事な宗教教育です。門脇兄の火葬場での教会員を含めた思い出の交わりは悲しみの中でも感慨深いものでした。

弟子がイエスに言いました。「まず行って父を葬ることをお許しください。」ところが、イエスは彼に言われた。「わたしに従って来なさい。死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい。」(マタイ8・21.22.)。これは親の葬儀をないがしろにしろということではありません。魂が死んだ不信仰者の葬儀に囚われて、形式を重んじるだけの人々に惑わされてはいけない、ということです。葬式や結婚式の儀礼だけを大事にし人に強いる人々はいるものです。

子供達にとっても、神を信じない人々にとっても、人の死は大きな衝撃であり、神の国の福音を伝える絶好の機会なのですが、サタンはそれを形骸化しようと図っています。ですから、信仰の中途半端な人や未信者にも同様にキリスト教的な葬儀をしたり、誰でも、或は犬猫までも天国に行くなどという言葉には決して惑わされてはいけないのです。

どのような宗教でも、その葬儀の儀礼は尊重しなければなりません。故人の死と遺族の悲しみは事実ですから、自分の宗教を主張したりせず、偶像礼拝の行為をしなければ、目立たないように葬儀の流れに従うことが、人としての礼儀です。

ヨセフは、父の葬儀を当時のエジプトの最高の儀礼で荘厳に葬儀を挙げました。そもそも、葬儀は、死の恐れ、悲しみ、悼み、などを弔うことであり、それぞれの風習、習俗、宗教などで形成されてきたものであって、他宗教だからといって否定してはいけません。人間には、不死への願望があり、死後の世界への恐怖もあります。それでヤコブをミイラにしたのですが、それは力を尽くした人間的な措置ですが、実際には死の前に何の力もありません。

墓の意味合いは、その人の足跡を残し、名誉を讃えることにあります。エジプトの王の遺体が入るピラミッドに比べたら、マクペラの畑地の洞窟は粗末なものですが、ヤコブやヨセフにとっては、神に愛され守られたアブラハムやイサクとリベカ、ヤコブの妻レアの記念の墓です(創世記49・31)

ヨセフも110歳で死ぬ前に、「神は必ずあなたがたを顧みて、あなたがたをこの地から、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地へ上らせてくださいます。」(50・24)と語り、「その時、あなたがたは私の遺骸をここから携え上ってください。」(25)と伝えます。そして、「モーセはヨセフの遺骸を携えていた。」(出エジプト13・19)、「イスラエルの子らがエジプトから携え上ったヨセフの遺骸は、シェケムの地、すなわち、ヤコブが百シェケルでシェケムの父ハモルの子たちから買い取った野の一画に葬った。そこはヨセフ族の相続地となっていた。」(ヨシュア24・32)。家族で墓を守り維持するのは、その信仰を継続する誓いでもあるのです。

「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」(ヨハネ11・25)。主が来臨されたら墓は要りませんね。

創世記50章1~12節

  • 50:1 ヨセフは父の顔の上に崩れ落ちて、父のそばで泣き、父に別れの口づけをした。
  • 50:2 ヨセフは自分のしもべである医者たちに、父をミイラにするように命じたので、医者たちはイスラエルをミイラにした。
  • 50:3 そのために四十日を要した。ミイラにするのには、これだけの日数が必要であった。エジプトは彼のために七十日間、泣き悲しんだ。
  • 50:4 喪の期間が明けたとき、ヨセフはファラオの家の者たちに告げた。「もし私の願いを聞いてもらえるなら、どうかファラオにこう伝えてください。
  • 50:5 父は私に誓わせて、こう申しました。『私は間もなく死ぬ。私がカナンの地に掘った私の墓の中に、そこに、私を葬らなければならない。』どうか今、父を葬りに上って行かせてください。私はまた帰って参ります、と。」
  • 50:6 ファラオは言った。「おまえの父がおまえに誓わせたとおり、上って行って、おまえの父を葬りなさい。」
  • 50:7 それで、ヨセフは父を葬るために上って行った。彼とともに、ファラオのすべての家臣たち、ファラオの家の長老たち、エジプトの国のすべての長老たち、
  • 50:8 ヨセフの家族全員、彼の兄弟たちとその一族が上って行った。ただし、彼らの子どもたちと羊と牛はゴシェンの地に残した。
  • 50:9 また、戦車と騎兵も彼とともに上って行ったので、その一団は非常に大きなものであった。
  • 50:10 彼らは、ヨルダンの川向こう、ゴレン・ハ・アタデに着いて、そこで、たいへん立派で荘厳な哀悼の式を行った。ヨセフは父のため七日間、葬儀を行った。
  • 50:11 その地の住民のカナン人は、ゴレン・ハ・アタデのこの葬儀を見て、「これはエジプトの荘厳な葬儀だ」と言った。それゆえ、その場所の名はアベル・ミツライムと呼ばれた。それはヨルダンの川向こうにある。
  • 50:12 ヤコブの息子たちは、父が命じたとおりに父に行った。