「呪いを覚悟して子の祝福を願う。」 創世記27章6~13、32、33節

「見よ。なんという幸せなんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになってともに生きることは。それは頭に注がれた貴い油のようだ。それはひげにアロンのひげに流れて衣の端にまで流れ滴る。それはまたヘルモンからシオンの山々に降りる露のようだ。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」(詩篇133篇)は、神の祝福の奥義です。指導者の上に注がれた祝福は、次第に下の方まで流れて行くのです。朝露も、野を潤します。幸せとは、家長に降りる神の祝福を受けて、家族が露のようにじっくりとした潤いを共有することです。

親を愛せない、親に従えないことは大変な不幸です。原因が親にあろうと子にあろうと、反目しあう親子を神が祝福することはありません。自分の考えや欲求が強いと人とは折り合えません。箴言には「父の訓戒に聞き従え。母の教えを捨ててはならない。」(1・8)と戒めています。

「一杯の食物と引き替えに自分の長子の権利を売ったエサウのように、淫らな者、俗悪な者にならないようにしなさい。」(へブル12・16)とあるように、エサウは父からの祝福を軽んじたのです。「彼は後になって祝福を受け継ぎたいと思ったのですが、退けられました。涙を流して求めても、彼には悔い改めの機会が残っていませんでした。」(17)。

英王室のヘンリー王子は、王室を離脱し、王室批判の本を出版し、王室を攻撃していますが、王子として非常に恵まれた特権や財産を、感謝するよりもむしろ当然なものとして、思い通りにならないことを怒っています。特にメーガン妃と結婚してから、相乗効果で酷いものになっています。あれだけ攻撃的になったら、誰からも祝福されないでしょうし、神からはもちろんのことです。彼は、祖母や父を尊敬し、従うことができなかったのです。「彼は後になって王室に戻りたいと涙を流して伝えても」難しいでしょう。彼の反抗性や家族への不信感は父親の不倫と実の母の無残な事故死からきたものでしょう。しかし、だからといって不適切な行動の言い訳にはなりません。

「エサウは長子の権利を侮った。」(25・34)。「エサウは巧みな狩人、野の人であった」(25・27)とあるので、関心は猟であり、自分勝手に野に生きていたようです。エサウにとって、家庭での団らんや信仰よりも、野山を駆け巡り猟をすることが大事だったのです。男性にとって、日本においては、家庭や信仰生活よりも、仕事や趣味を優先する人が多いようです。外国では妻は、そういう理不尽に妥協しないので、それは通じません。

リベカは、双子がお腹の中で暴れている時に神に祈ると、「兄が弟に仕える。」(25・23)という預言を受けます。「ヤコブは穏やかな人で、天幕に住んでいた。」(25・27)。エサウは、40歳になったので、ヒッタイト人の二人の娘を妻としましたが、「彼女たちは、イサクとリベカにとって悩みの種となった。」(26・35)。

イサクは90歳を過ぎて目がかすみ、よく見えなくなったので、エサウを呼び寄せて長男としての祝福の祈りをすると告げます。その前に、美味しい肉を食べさせろと要求します。リベカは、それを聞きつけ、乱暴者で家に寄り付かず信仰心もないエサウに家を継がせてはならないと考え、ヤコブに子ヤギを捕まえて来るように伝えます。ヤコブは、慎重ですから、毛深い兄と滑らかな肌の自分は、祝福の祈りの時に父にばれてしまうと伝え、そうしたら「祝福どころか、呪いをこの身に招くことになる」(12)と心配を告げます。

リベカは言います。「子よ、あなたへの呪いは私の身にあるように。」(14)。と引き受けます。父イサクの祝福は、「諸国の民がお前に仕え、…。お前は兄弟たちの主となり、…。お前を呪う者が呪われ、お前を祝福する者が祝福されるように。」(29)という力強いものでした。帰ってきたエサウが父に他の祝福を求めても、それは無理でした。

神を信じない者、神を信じても自分の能力で生きようとする者にとって、神の祝福を求めることはしません。したとしても、「もしかなったら、ラッキー」という程度のおみくじや占い程度の思いのようです。

リベカは、イサクに対しては従順でしたが、不信仰な人、俗悪の人に対する思いと行動ははっきりとしていました。エサウと嫁たちにもはっきりと嫌悪を示していますが、「もしヤコブが、…このようなヒッタイト人の娘たちのうちから妻を迎えるとしたら、私は何のために生きることになるのでしょう。」(46)。と、兄ラバンのところにヤコブを送り出します。カナンの人々の俗悪さが思い見られますが、現代の日本人の一部の人々の生活も大変淫らで俗悪です。それを嫌悪する気持ちがないならば、私たちは聖くないのです。

逞しく粗暴なエサウがヤコブを殺そうとしていることも知って送り出すのですが、この後、リベカはヤコブに再び会うこともなく死んでいきます。リベカは覚悟していたのだと思われます。

創世記27章6~13、32、33節

  • 27:6 リベカは息子のヤコブに言った。「今私は、父上があなたの兄エサウにこう言っておられるのを聞きました。
  • 27:7 『獲物を捕って来て、私においしい料理を作ってくれ。食べて、死ぬ前に、【主】の前でおまえを祝福しよう。』
  • 27:8 さあ今、子よ、私があなたに命じることを、よく聞きなさい。
  • 27:9 さあ、群れのところに行って、そこから最上の子やぎを二匹取って私のところに来なさい。私はそれで、あなたの父上の好きな、おいしい料理を作りましょう。
  • 27:10 あなたが父上のところに持って行けば、食べて、死ぬ前にあなたを祝福してくださるでしょう。」
  • 27:11 ヤコブは母リベカに言った。「でも、兄さんのエサウは毛深い人なのに、私の肌は滑らかです。
  • 27:12 もしかすると父上は私にさわって、私にからかわれたと思うでしょう。私は祝福どころか、のろいをこの身に招くことになります。」
  • 27:13 母は彼に言った。「子よ、あなたへののろいは私の身にあるように。ただ私の言うことをよく聞いて、行って子やぎを取って来なさい。」
  • 27:32 父イサクは彼に言った。「だれだね、おまえは。」彼は言った。「私はあなたの子、長男のエサウです。」
  • 27:33 イサクは激しく身震いして言った。「では、いったい、あれはだれだったのか。獲物をしとめて、私のところに持って来たのは。おまえが来る前に、私はみな食べてしまい、彼を祝福してしまった。彼は必ず祝福されるだろう。」