「癒しは信仰者のパン。」 マタイ15章21~31節

 先週のサマリヤの女性の救いの後、昼食を食べていないイエス様に「食事をしてください。」(ヨハネ4・31)と勧めると、「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」(32)と断り、「わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」(34)と語られています。このことは、神の業を行うと、つまり霊的に満たされると肉体的にも満たされるということの教えですが、長い断食をした時の満足感と同じような気がします。その後に、「すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。」(ヨハネ4・36)と宣教の結果として永遠のいのちに至る救いを得た人々がいるということを語られています。注意するべきは、ここで救われたのは「その町の多くのサマリヤ人」(ヨハネ4・39)であるということです。サマリヤ人は、律法によれば選ばれた民族ではありません。

 今日の聖句で、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」(26)とイエス様が語られているのは、神の業をするのは、救いに選ばれたイスラエルの人々が対象であるということです。ところが、選ばれていないはずのカナンの女性が「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」という信仰を現わしたので、イエス様は癒しの業をされたのです。そして、この時も、「ツロとシドンの地方に立ちのかれた。」(21)とあるように、それらはフェニキアの領土なのです。

 このようにイエス様は、わざわざ異邦の地に行くのですが、その時の癒しや奇跡は、出し渋っておられるのです。むろん、人の心を見抜く方ですから、それは彼女たち自らの強い信仰の発言を促し、癒しや奇跡に終わらない信仰に留まらせるものであることを、私たちは心得ておかなければなりません。

 さて、「子どもたちのパン」と語られたことが癒しや奇跡であるのですから、信仰者にとって、癒しや奇跡は、信仰者を養う糧であることを意味しています。そして、新約聖書全般を読むと、以下のポイントがあることがわかります。

1. 未信者への神の現われ、福音としての奇跡や癒し。

この30節からの大勢が癒されたことは、その例です。人々は、自らの癒しや不具合の回復を通して神の真実さを悟り、神を崇めるのです。そして、信仰が単なる病の癒しに留まらず、神の国への渇望に至るようにイエス様は語り掛けるのです。そして、信仰者もまた、それらの奇跡によって、信仰を成長させるのです。

2. 信仰者には、信仰を養うパンとしての奇跡や癒し。

 私たちは、食物が無ければ生きていくことはできません。多くの場合、肉体的な命と食物への関心で満ちていて、永遠のいのちへの関心は、信者と言えども、継続的に保持して霊的な食物を求め続けるということは、なかなかないのが現実です。このことは、「私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。」(Ⅰコリント3・1-2)という未だ未成熟な信仰の状態です。

 信仰は神の国への確信であり、そういう面では、地上での病気や怪我、障害や不幸というものは、信仰者にとってはあまり問題ではないものです。しかし、実際には、病気になると生活や身体に支障があり、私たちはそれによって信仰が揺らぐものです。そういう時に、神に癒しを求めるということが、神への依存であり、癒しや奇跡によって神の助けを得ることができるのです。そういう面で、私たちが思い悩むか、神に求めるかどうかで、信仰が成長するか、停滞するかが具体的に明らかになるのです。

 「まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。」(へブル5・113.14)とあるように、義とは、保証もないのに正しい行動を取ることです。甘やかされて育つと、病気や困難に出会うと、ただ怯えるばかりで正しい行動が取れないのです。堅い食物とは、よく噛まなければ消化できないものです。そして、よく吟味し、よく準備して信仰の行動に出るからこそ、「良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練され」るのです。

 パウロは、前に述べたように石打の刑にあった後遺症で背骨が曲がり、障害を持っていたのですが、伝道旅行に明け暮れました。「私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(Ⅱコリント12・10)。つまり、パウロは、奇跡や癒しが無くても、イエス様のように固い食物である強い信仰をもって神の業を為し続けたのでした。

 神からの恵みである癒しや奇跡を通して成長するということは、大事な柔らかいパンであり、未信者や初信者には必要なことです。そして、奇跡や癒しがなくても、他人が理解しなくても神のために働くということが、堅いパンを食べながら働く成熟した信仰者なのです。柔らかいパンでも食べられないのは、自らが食べようとしないからです。カナンの女性を見習わなければなりません。

マタイ15章21~31節

  • 15:21 それから、イエスはそこを去って、ツロとシドンの地方に立ちのかれた。
  • 15:22 すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」
  • 15:23 しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです」と言ってイエスに願った。
  • 15:24 しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません」と言われた。
  • 15:25 しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください」と言った。
  • 15:26 すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです」と言われた。
  • 15:27 しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」
  • 15:28 そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。
  • 15:29 それから、イエスはそこを去って、ガリラヤ湖の岸を行き、山に登って、そこにすわっておられた。
  • 15:30 すると大ぜいの人の群れが、足のなえた者、手足の不自由な者、盲人、口のきけない者、そのほか多くの人をみもとに連れて来た。そして彼らをイエスの足もとに置いたので、イエスは彼らをいやされた。
  • 15:31 それで群衆は、口のきけない者がものを言い、手足の不自由な者が直り、足のなえた者が歩き、盲人たちが見えるようになるのを見て驚いた。そして彼らはイスラエルの神をあがめた。