「キリストが道です。」ヨハネ14章1~7節

昔は山登り、山歩きが好きでした。人が歩いている所が道となり、管理者が危険防止や歩き易い為に整備して道が整ってきます。陽の当たる所は雑草が生い茂ると道がどこだかわからなくなります。先人が間違った道を歩めば、そこを道だと勘違いして迷うこともあり、あわてて来た道を戻ります。日本の山は入り組んでおり、迷うと危険です。遭難しかかった時もあり、その恐怖感を忘れることはできません。スイスの山下りは、妻が勝手な道を歩くので心配でしたが、人が登る山は、歩いていればどこかの道に辿り着くというので、楽しんで家の庭や路地を通り抜けて下ったものです。

イエス様は、「私が道です。」と言われました。この道を通らなければ、「神の御許に行くことはできません。」。スペインの巡礼路サンティアゴ・デ・コンポステーラは、ヤコブの遺骸があるとされるサンティアゴに向けて、フランスなどからピレネー山脈を越えて800キロ以上を歩きます。スペイン語でカミーノとは道という意味で巡礼のことです。信仰者だけでなく、毎年10万人ほどの老若男女多彩な人が30日以上かけて5ユーロ程の安宿に泊まりながら歩くのです。信仰、健康、楽しみ、休暇、多様な理由で歩くのが目的の巡礼をするのです。次女のマリヤはその途中でアメリカ人の母と一緒のニコラスと会ったのです。

それでも多くの人々は、信仰心をも模索します。道中の人々は巡礼者に優しく助けてくれ、人生に疲れた人々の心を癒します。現代は情報過多であり、仕事に忙しいのに人との交流は浅薄になっています。身体も心も使い過ぎると、消耗して動けなく、動かないようになるそうです。そういう面での自浄行動としてカミーノに赴くのかもしれません。

神のもとに行く、神の国に入る、ということは、一般の人には全くわからないことであると思います。信仰者を認めても、現代社会に生きる人々にとって、信仰はなにか理解できない得体の知れないものに思われるでしょう。特に無神論教育を受けている日本人には、宗教者は現実離れした異常者のように見えるでしょう。

自らの青年時代を思い起こすと、次第に出世や富を求める嫌なタイプの人間になっていくことに自己嫌悪を感じていました。酒には強かったけれど、酔って自分を見失うことが嫌で酒は好きではありませんでした。中一の時に、泡のように消えていく自分を思い、涙した自己啓発の願いが、この世の流れに流されていくのを感じたのです。「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7・14)。殆どの人は、いのちの門を見出さないのです。

私たちは確かに、この門を見つけ、いのちの道を知ったのです。「あなたは、私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる。」(使徒2・28)。しかし、この道を歩むためには、努力や能力、そして人間的なこの世の生き方をしていては駄目であることを多くの人が悟っていません。キリストが「道であり、真理であり、いのちなのです。」。キリストという真理に従い、いのちに満たされなければ、この道は歩けないのです。ところが、多くのクリスチャンが、信仰とこの世での生活を別のものとしているので、「いのちの道を・・・、喜びで満たし」て歩けないのです。

 教会生活にはいのちと喜びがあります。しかし、いのちと喜びが無くても、教会には来ることができます。この世の空虚な暮らしに慣れた人々には、教会に来ることだけで楽しく、まるで自らが神の国への道を歩んでいるかのように感じるのです。カミーノを歩いても、実際には、この世の思い煩いを忘れ、健康を取り戻し、なんとなく憂さ晴らしをしているだけのようなものです。大事なことは、真理に生き、御霊に満たされることです。

 「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」(Ⅰコリント1・18)。「召された者たちにとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。」(同1・24)。現代社会では、クリスチャンは愚か者です。賢そうに見せる必要はありません。その愚かそうで誠実なクリスチャンに魅力を感じる人がいたら、その人は「いのちに至る門」を見出そうとしている人です。

 多くのクリスチャンや牧師たちが、コロナ騒ぎで感染しないように、感染源にならないようにとひたむきになっていることが、なにか愚かしく感じます。感染しても、感染源となっても、この世の空騒ぎです。神の国に行く道さえ迷わなければ、なんのこともありません。がんや心臓病、糖尿病、高血圧、内臓疾患、・・・、恐れる病気は山ほどあります。なぜ、そういう重大疾患よりも死亡率や重病率の低い新型コロナウイルスに大騒ぎするのでしょう。感染者数を話題にするマスコミに踊らされているだけです。

 私たちは医療関係者として、多くの死にゆく病気の人々を見ています。彼らもまた、死ぬまで死後のことを考えておりません。美味しい物を食べ、好き勝手をして生きようと考えているのです。或は、死んだらどうしよう、感染したらどうしようと悩んでいます。魂のことなど考えないでいるのです。霊魂の不滅を考えていない現代日本では、死んだらおしまい、なので、生きている限り楽しいことをしようとしているのでしょう。神に「愚か者」と呼ばれるのは、そういう人々です。

ヨハネ14章1~7節

  • 14:1 「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
  • 14:2 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
  • 14:3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。
  • 14:4 わたしの行く道はあなたがたも知っています。」
  • 14:5 トマスはイエスに言った。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」
  • 14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
  • 14:7 あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」