「キリストに留まる。」ヨハネ15章1~9節

農業は自然との戦いであり、働かなければ収穫はありません。「朝のうちにあなたの種を蒔け。夕方も手を放してはいけない。あなたは、あれか、これか、どこで成功するのか、知らないからだ。二つとも同じようにうまくいくかもわからない。」(伝道者11・6)。「風を警戒している人は種を蒔かない。」(11・6)というのは、考え過ぎている人への警告でしょう。その前には、「あなたの受ける分を七人か八人に分けておけ。地上でどんなわざわいが起こるかあなたは知らないのだから。」(11・2)とあり、他の人を助けておかなければ、自らが助けられることはないと警告しています。

人との関わりを避ける人が増えていますが、そういう人は災いの時に助けを受けることはできません。自分の都合の良い物を都合の良い時に求める人がいますが、そういう人が苦しい時に助けられるほど世の中も神も甘くはありません。レジリエンスの強い人は、古い物や壊れた物を修理する人、他の用途に使おうとする人でもあるそうです。「終活」を身辺整理と考えて処分して金銭に変えようすると、騙されて何もなくなる人が多いようです。人と関わることを厭う現代の風潮に流されてはいけません。「自分のために蓄えても、神に対して富まない者」(ルカ12・21)は「愚か者。・・・おまえが用意した物は、いったい誰のものになるのか。」(20)ということになるのです。

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。」(15・5)という木と枝の区分はどこなのか、と考えたことがあり、葡萄の木を調べました。苗木を3年は掛けて、幹を大きくします。幹が大事なのです。「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」(2)は、怖い言葉です。実を結ばない枝というのは、その年に延びたつるで幹からではなく、枝から伸びたものです。イエス様がぶどうの木であり、そのイエス様と直接繋がっていないと実を結ばないということがわかると納得しました。

「私は怠け者の畑のそばを、良識のない者のぶどう畑のそばを通った。」(箴言24・30)。茨が一面に生え雑草だらけで、剪定もしていないので、幹と枝の区別もつかずに散らかっており、実も大きく育っていないのです。ぶどうの幹と枝がごちゃごちゃになっており、区別がつかないということは、手入れが悪いということです。幹を大事にしていないのです。根元に雑草が生えると病原菌が繁殖して、実はつかずにおちてしまい、かびてしまいます。

しかし、手入れをして、枝が成長すると幹と区別がつかなくなり、幹になっていきます。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2・20)。自己主張していると実を結ばず、「父がそれを取り除き」、信仰から教会から離れさせられてしまうのです。自分の意志で教会批判をして去ったように思う人が多いのですが、実際には、神がその人を拒んだのです。

 ぶどうの木には、虫も付き、病原菌も付き、栄養や水も必要です。水も肥料も要らない、という極端なことは決してありません。世話をしないで収穫できる果実などはありません。驚くべきことに、ぶどうの木である教会の世話は、父なる神がなさるのです。

 ぶどうの枝は実を実らせるために働いているのでしょうか。「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」。大事なことは、意思と決意と根性をもって、キリストに繋がることなのです。そしてら、実を結ぶのです。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」(ガラテヤ5・22.23)。ご自分を点検してください。この実が実っていないならば、あなたはキリストに繋がってはいないのです。

愛の反対は憎しみ、悪、孤独。喜びの反対は憂い、悲しみ。平安の反対は不安。寛容の反対は過酷、偏狭、厳格。親切の反対は薄情、冷淡、邪険。善意の反対は悪意。誠実の反対は不誠実、不実。柔和の反対は乱暴、凶悪。自制の反対は放縦。辞書で調べましたが、こういう反対の要素を持っていたら、心から悔い改めなければなりません。「だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。」感情のままに怒り、人を攻撃し、批判を繰り返す人がいますが、神の裁きを知らないのです。

祝福は御霊の実を結ぶだけではありません。「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」。ぶどうの実としての祝福だけでなく、神の子としての多くの祝福を与えられるのです。それは、人間としての努力の結果としてのものではありません。「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、(救いという)恵みの上にさらに(多くの)恵みをうけたのである。」(ヨハネ1・16)。

ヨハネ15章1~9節

  • 15:1 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
  • 15:2 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。
  • 15:3 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。
  • 15:4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
  • 15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
  • 15:6 だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。
  • 15:7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。
  • 15:8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。
  • 15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。