「見守る母マリヤの愛。」ルカ1章45~55節、ヨハネ19章25~27節

マリヤは受胎告知を受けた時、論理的にはあり得ない、と答えたのですが、聖霊の働きによる受胎であると天使に告げられると、直ぐに「私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」(ルカ1・38)と受け入れます。しかし、それは石打の刑もありうる大変な試練です。婚約者ヨセフとの破談も覚悟しなければなりません。神に従うとすぐに応える潔さと従順さ、そして試練をも覚悟する勇気は、確かにイエス様の受肉の奇跡を為すうる神の器です。

引用したマリヤ賛歌は全ての試練を覚悟したもので、信仰者の勝利、高慢な者への罰、貧者への祝福、祖国の復興を預言しています。また、その前にエリサベツも、会ったとたんに「主の母が私のところに来られる」(1・43)と御霊に満たされて叫んだことは素晴らしいことです。

イエス様の誕生の日には、羊飼いが礼拝に来たので、「マリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。」(2・19)。シメオンのマリヤへの預言は、「あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります。それは多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです。」(2・35)という怖いものでした。

12歳の祝いにエルサレムへの巡礼に連れていくと、帰りの道中におらず、両親はエルサレムに引き返すと3日後に神殿で教師たちと論争していました。母マリヤが「心配して探していたのです。」(2・48)というと、「わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存知なかったのですか。」(49)と応えられる「イエスの語られたことばが理解できなかった。」(50)。しかし、「母はこれらのことをみな、心に留めておいた。」(51)。

親にとって子どもの言動、そして心の内、さらに将来どうなるかはわからないものです。多くの親は、自分の体験と性格・性質を元に子どもを定義付けたがるのですが、子どもにとっては迷惑なものです。イエス様がどのような方であり、どのように歩むか、その生まれと預言を知っているマリヤでもわかるはずがありません。でも、マリヤは、「心に納め、思いを巡らせ」、「心に留めておいた」のです。

私は、9人兄弟の末っ子ですが、全く兄や姉とは違っていました。父は私を期待していたかもしれませんが、何も言いませんでした。何も言われないといろいろ考えます。そして、定義付けされないので、どんどん変化していきました。それをじっと見られていたと思います。

兄弟で大学に行った者はおらず、商人で職人の家は芸術や教養とは縁のない平凡な、庶民的な家庭でした。中3の時に、「父から大学に行くのはいいが、卒業まで親が生きていると思うな。」と言われ、高3の時に、入学諸費用として30万円をもらいました。浪人しても、どの大学を受けるか、全く口出しされませんでした。両親とも、子どもに期待を掛けるということが、余分な重荷になることを知っていたようです。貧しいのに、入学後は学費を合わせて毎月3万円送ってくれました。留年しても、大学院に行っても何も言わず、ただ神学校にいく時だけ、「まだ若いのではないか。」と父が言いました。父も母も何もいわず、私の考えに口出しすることを避け、愛情だけを注いでくれました。この両親の子であったことを心から感謝しています。

父ヨセフは早死にし、「この人は大工の息子ではありませんか。彼の母親はマリヤで、彼の兄弟は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではありませんか。妹たちもみな私たちといっしょにいる」(マタイ13・55)という平凡な人生をイエス様は30歳(ルカ3・23)で捨て、福音を伝え始めました。

その時のマリヤの思いはどんなものだったでしょう。「イエスの兄弟たちはイエスに向かって言った。『…、自分から公の場に出たいと思いながら、隠れた所で事を行う者はありません。あなたがこれらの事を行うのなら、自分を世に現しなさい。』兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。」(ヨハネ7・3-5)。弟たちは、仕事を捨てて福音を伝えるイエス様を出世志向の目立ちたがり屋と見なして腹を立てたのです。

「ご覧なさい。あなたのお母さんと兄弟たちが、あなたに話そうとして外に立っています。」(マタイ12・47)。律法学者や指導者たちがイエス様を押さえつけようとして家族に圧力を掛け、伝道を止めさせようとしたのです。イエス様は、「私の母とは誰ですか。」(48)と肉親の情愛に左右されることを否定し、「父の御心を行う者が、私の家族」と冷たく言い放つのです。しかし、マリヤはイエス様と共に歩みました。

イエス様の下着は「上から全部一つに織った縫い目のないものであった。」(ヨハネ19・23)。これは母マリヤが織ったものだと言われています。家を勝手に出て福音に専念し、母をも顧みない我が子イエスをマリヤは見守り続けるのです。そして、「心を剣が刺し貫く」最後の時に、「母に『女の方。そこに、あなたの息子がいます』と言われた。」のです。そして、信仰者であるヨハネに母を任せるのです。聖母と慕われるマリヤの愛と忍耐、そして謙遜に、私たちは慰められます。私たちもまた、母を変えようとしてはいけません。

ルカ1章45~55節

  • 1:45 主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」
  • 1:46 マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、
  • 1:47 わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。
  • 1:48 主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。
  • 1:49 力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、
  • 1:50 そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。
  • 1:51 主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、
  • 1:52 権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、
  • 1:53 飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。
  • 1:54 主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。
  • 1:55 私たちの父祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです。

ヨハネ19章25~27節

  • 19:25 兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。
  • 19:26 イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます」と言われた。
  • 19:27 それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。