「神の子、キリスト」 ヨハネ1章45~51節

 サタンは、「あなたが神の子なら」(マタイ4・3,6)とイエス様に、その権勢によって「石がパンになるように」、「身を投げても天使が守るだろう。」と誘惑しています。それに対して、「主を試みてはならない。」(7)、「主にだけ仕えよ。」(10)と、父なる神に対して、子としての権利を行使しようとはしていません。もし、この試みに応じたら、信仰者は、自分の願い通りに神に応えてくださることを要求したでしょう。実際には、このように教える教会は多いのですが、神を自分の下僕のように考えているのです。

 悪霊が、「神の子よ。いったい私たちに何をしようというのです。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来られたのですか。」(マタイ8・29)とイエス様に文句を言っているのは、裁きの時は、まだ後で、それまでは好きなことをして人々を誘惑できるはずだと言っているのです。

 人間も「もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」(マタイ27・40)と、自分の思い通りにするのが神であると考えています。しかし、十字架の現場にいた「百人隊長および彼といっしょにイエスの見張りをしていた人々は、地震やいろいろの出来事を見て、非常な恐れを感じ、『この方はまことに神の子であった』と言った。」(マタイ27・54)。百人隊長は、各地を回るので、その後カイサリヤにいた敬虔な百人隊長コルニリウス(使徒10・1.2.)は、そのことを聞いていたかもしれません。或は本人かもしれません。つまり、軍人は、上司の指導を仰ぐことが大事で、自己中心な判断をしてはいけない、ということを身に付けているからこそ、理解できたのかもしれません。

 「汚れた霊どもが、イエスを見ると、みもとにひれ伏し、『あなたこそ神の子です』と叫ぶのであった。」(マルコ3・11)。「「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。」(マルコ5・7)と叫んだのは、多くの悪霊に疲れた人でした。イエス様は、解放した後に、ご自分が神の子であることを知らせないように戒めています。悪霊が出す評判は、真実を伝えているようでも、間違いなく罠が含まれているからです。人間は、有名になることや名を遺すことを期待しますが、落とし穴もあるものです。

 そんな中でナタナエルに対して、イエス様は真摯に対応しています。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」(47)。「イチジクの木の下で安心して暮らした。」(Ⅰ列王記4・25)。「イチジクの木の下に座るようになり、彼らを脅かす者はいない。」(ミカ4・4)とあるように、平和を祈り、瞑想する習慣がイスラエル人にはあるのです。ともかく、ナタナエルは、自分の国のことを憂え、執り成しながら、神に祈っていたことは間違いありません。

 「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」(48)と聞いて、「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」(49)と答えたのは、ナタナエルが、そのことを願い、神に祈っていたことを聞いた、というイエス様の答えだからです。

 私たちがこの国を憂い、為すべきことを求めて神に祈る日々を過ごしているならば、神は私たちを、「彼のうちには偽りがない。」(47)と、見定めてくださるのです。

 イエス様はナタナエルに応えます。あなたの祈りを聴いている神は、「それよりも大きなことを」(50)されるのです。「天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」(51)。私たちが「イエス様のお名前によって祈ります。」と祈るように、御使いは、信仰者の願いと助けをイエス様によって為すのです。

 ピリポが、「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」(45)とナタナエルに告げた時、彼は神学的にナザレ出身者から神の使いが現れることはないと、断言しました。しかし、ピリポは、「来て、そして、見なさい。」(46)と語り、救い主と出会ったのです。

 説得や議論、論理の理解によって魂が救われることはありません。「神の子」との出会いがなければ、ただの宗教者でしかなく、ナタナエルのような感動はないのです。理解を求めることや納得を求めることは、自分中心であり、神を信じて我が身を委ねることはできません。

 クリスマスは、「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)(マタイ1・23)。神が、信じる者に内在してくださり、御使いが私たちの為に天と地を行き来してくださることを、体験する人は幸いです。

ヨハネ1章45~51節

  • 1:45 彼はナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」
  • 1:46 ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」
  • 1:47 イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」
  • 1:48 ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは言われた。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」
  • 1:49 ナタナエルは答えた。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」
  • 1:50 イエスは答えて言われた。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったので、あなたは信じるのですか。あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。」
  • 1:51 そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」