「神が私についておられる。」 創世記31章36~43節

ヤコブは、ラバンに騙されて愛するラケルの代わりに姉のレアとも結婚されましたが(創世29・20-28)、「主はレアが嫌われているのを見て、彼女の胎を開かれた」(29・31)。レアは生まれた長男にルベン(私の息子を見てください)、続いてシメオン(神様は聞いてくださった)、3男のレビ(夫は私に結び付く)、4男ユダ(褒めたたえる)と請願の名前を付けます。

ラケルは、「姉に嫉妬し」(30・1)、自分の「女奴隷ビルハを妻として与えた」(4)。生まれた子をラケルが5男ダン(正しく裁く)と名付け、次の子を6男ナフタリ(争いの結果、勝った)と名付けます。

そうすると、レアも「女奴隷ジルパをヤコブに妻として与えた。」(10)。レアは、生まれた7男にガド(運が開ける)、8男にアシェル(幸せ者と呼ぶ)と名付けます。

ルベンが採って来た「恋茄子と引き換えに、今夜、あの人にあなたと一緒に寝てもらいます。」(15)としてレアに生まれたのが9男イッサカル(報酬)で、さらに身ごもったのが10男ゼブルン(贈り物)で、その後に娘ディナ(正しい裁き)を生みます。

「神はラケルに心を留められた。」(22)ので、11男ヨセフ(もう一人子を授かるように)を生みます。これらは7年間の追加の労働契約の間ですから(注、25節)、レアは毎年子供を産んでいるわけです。ヨセフの後、しばらく子どもは生まれないのですが、6年後にラバンの許を去る旅の後ベツレヘムへの途中エフラテでラケルは末子12男ベン・オニ(私の苦しみの子)を生みますが、ヤコブはベニヤミン(右手の子、幸運の子)と名付けます。

壮絶な姉と妹の争いが何故起こったのでしょうか。父ラバンは、ずる賢い人で娘たちのことなど気にかけてはおりません。その夫のヤコブを利用して豊かになろうと目論んでいただけです。ラケルとレアは、「私たちは父によそ者と見なされているのではないでしょうか。あの人は私たちを売り、しかもその代金を食いつぶしたのですから。」(31・15)。

このような父がいて、自分たちは利用されただけだと考える姉妹の心が温順であるはずがありません。子どもの名前に、勝ち負けや神の裁きを味方につけるようなものがあるのは、自分の有利なようなことを求める偏った信仰心の現われです。親のラバンのずる賢さが、姉妹であっても信頼し合うことを損ね、生涯に亘る不幸を招いてしまったのです。しかし、そのように争って生みあう中で多様な12部族の祖先が生まれたのです。

ヤコブも、ラバンに抗議しています。「野獣に噛み裂かれたものは、あなたのもとへもって行かずに、私が負担しました。それなのに、あなたは昼盗まれたものや夜盗まれたものについてまでも、私に責任を負わせました。…あなたは何度も私の報酬を変えました。」(31・39.41)。

神が介入しなければ、ラバンはヤコブに襲い掛かったでしょう(23)。「あなたは気を付けて、ヤコブと事の善悪を論じないようにしなさい。」(24)。神が付いている人に、敵対したら神が容赦をしないのです。人の善悪を論じることは、神の裁きに代わるものであって、人間の高ぶりの現われです。批評の好きな人がいますが、幸せにはなれません。

ともかく、ヤコブはラケルを愛し、レアにも夫としての義務を果たして守ってきました。そして、よく働き、財産を増やしてきました。そのすべてにおいて「私の父祖の神、アブラハムの神、イサクの恐れる方が私についておられなかったなら」(42)という信仰を保持していたのです。

 聖書註解者たちは、ヤコブをずる賢いと言いますが、兄エサウを騙したのは、母の信仰による正義感の故でした。何も持たずに父の家を出て、ずる賢い叔父ラバンの下で働いたのですから、知恵を尽くして生きていくしかなかったのです。さらに、このような妻たちの夫の愛を求める熾烈な争いに苦しんできたのです。私は、ヤコブをずる賢いと言ってしまうプロテスタントの聖書註解者の信仰姿勢の方を問題だと思っています。

 神は、「『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。」(マタイ22・32、他多数)として現れました。皆さんに、この3人について連続説教をしていますが、共に生きる神の守りと祝福を信じてひたむきに生き抜いてきたのです。どんなことがあっても神を信じ勝利を目指して生きるという彼らの姿勢がなかったら、現代のイスラエル民族も、イエス様も、私たちクリスチャンもなかったのです。

きれいごとを言って、公明正大かつ誠実に生きているという信仰者が、悪や罪と戦って血を流すような努力をしてきているか疑問です。日本には、そういう心構えの力ないクリスチャンが多いように思います。だから、未信者にも他の宗教者にも、軽んじられ、相手にされないのです。「神が私についておられる。」と勝利を目指して生きることは、大変なことなのです。

創世記31章36~43節

  • 31:36 するとヤコブは怒って、ラバンをとがめた。ヤコブはラバンに向かって言った。「私にどんな背きがあり、どんな罪があるというのですか。私をここまで追いつめるとは。
  • 31:37 あなたは私の物を一つ残らず調べて、何か一つでも、あなたの家の物を見つけましたか。もしあったなら、それを私の一族と、あなたの一族の前に置いて、彼らに私たち二人の間をさばかせましょう。
  • 31:38 私があなたと一緒にいた二十年間、あなたの雌羊も雌やぎも流産したことはなく、また私はあなたの群れの雄羊も食べませんでした。
  • 31:39 野獣にかみ裂かれたものは、あなたのもとへ持って行かずに、私が負担しました。それなのに、あなたは昼盗まれたものや夜盗まれたものについてまでも、私に責任を負わせました。
  • 31:40 私は昼は暑さに、夜は寒さに悩まされて、眠ることもできませんでした。
  • 31:41 私はこの二十年間、あなたの家で過ごし、十四年間はあなたの二人の娘たちのために、六年間はあなたの群れのために、あなたに仕えてきました。しかも、あなたは何度も私の報酬を変えました。
  • 31:42 もし、私の父祖の神、アブラハムの神、イサクの恐れる方が私についておられなかったなら、あなたはきっと何も持たせずに私を去らせたことでしょう。神は私の苦しみとこの手の労苦を顧みられ、昨夜さばきをなさったのです。」