「犠牲は信仰の証明。」 創世記22章6~14節

日本人の宗教性を考えると集団的、或は風土的なものが多いように思います。神社などのお祭りは風土的であり、神輿などは集団的で、個人の信仰はその行事に帰依しているかどうかによって周囲に測られているようです。初詣やお札は、他から見れば呪術的な風習と思われるでしょう。仏教は、殆ど祖先を祀る儀礼的なものとなっており、そこに個人的な信仰心は感じられません。

1月5日に施行された、いわゆる「統一協会被害者救済新法」は、実際には、無神論に基づく宗教団体への規制、及び巧妙な崩壊工作であるように思われます。第四条第6号には、「合理的に実証することが困難な特別な能力による知見」で信仰や寄付を勧誘することが個人を困惑させるので禁止とあります。宗教というものは、個人の宗教心や良心、そして善意を促すものであって、それは合理的なものではありません。確かにキリスト教は神学も弁証法もありますが、それは無神論に基づく合理性とは両立しません。

カントは『純粋理性批判』で、人間の英知では神も宇宙も理解することはできず、心が因果法則に支配されていれば、人間の自由意志はない、と論破しています。信教の自由が認められており、個人の判断の尊厳が尊重されるべき現代国家で、このような無神論的立法がされたのは、まさに終末であり、サタンの暗躍の結果です。神を恐れない傲慢な行いです。

今日の聖句は、信仰者にとっても、非常に非合理でわかりづらい内容です。神は、アブラハムの歳をとって得たひとり子イサクを「全焼の生贄」として献げることを命じるのです(22・2)。

それに対してアブラハムは、「翌朝早く」(3)、イサクを連れて、全焼にするための多量の薪を積んで出かけるのです。「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考えました。」(へブル11・19)とありますが、翌朝早くそんな信仰の奥義を持つとは考えられません。旅の途中、あるいは生贄として献げる直前かもしれません。ともかく、どうして翌朝早くその行動がとれたのでしょうか。

先週、状況極まってアブラハムが妻サラを、アビメレクの王室に入れたことを話しました。その時のアブラハムのあがき、苦しみは如何ほどだったかと思い見ました。そして、神が介入して助けてくれたのです。信仰は、自らの経験と神体験が必要で、合理的な理性を超えた神への誓願と成果が積まれてこそ、深い信仰生活に入って行きます。

絶望的な状態の中で、神を信じ切るか否かが、その人の信仰生活を決めるのです。アブラハムは、そのような信仰生活の経緯の中で、ともかく、神に従うことにして、「翌朝早く」行動を取ったのです。多くの人が考える中で迷い、どっちつかずの行動を取ります。そして、次第に不信仰になっていくのです。

三日目にロバと従者二人を置いて、薪をイサクに背負わせてモリヤの山に登りました。多くの薪を背負うのですから、イサクは既に成人の体力を持っていたでしょう。イサクから「全焼のささげ物にする羊は、どこにいるのですか。」と聞いたのは、羊を捕まえてきましょうかという息子の配慮かもしれません。ともかく、アブラハムは、涙を抑えるのに必死だったでしょう。

モリヤの山は、後に神殿が建てられたエルサレムのシオン山であると言われています。神が「お告げになった場所」(9)とは、神の臨在が強くあったのでしょう。そこでイサクに手伝わせ、祭壇を築きます。その後、縛られたイサクの心情は如何なるものでしょうか。このことが生涯神に従順であったイサクの性格に結びついていきます。

愛するひとり子を犠牲としてナイフで手にかけようとした時には、アブラハムの思いは、「神には人を死者の中からよみがえらせることもできる」という願いに必死でありながら従ったのでしょう。

人は、自分の利益を優先して生きます。自分の利益の代表である一人息子を神に自ら献げるということは、まともな判断を超えたことです。しかし、アブラハムは、信仰によって神に従いました。納得してしたことではありません。無責任な行動でもありません。神の全能性、神の愛の絶対性を信じたからです。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3・16)

御子イエスを人間の世に送り、そして人の罪の代価として十字架に掛かることを許されたのは、それしか人を救う道がなかったからです。アブラハムの理不尽、非合理な信仰行為は、父なる神に、息子イエスの犠牲を納得させ、その価値があることを証明する、人類を代表する信仰行為だったのです。

創世記22章6~14節

  • 22:6 アブラハムは全焼のささげ物のための薪を取り、それを息子イサクに背負わせ、火と刃物を手に取った。二人は一緒に進んで行った。
  • 22:7 イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」彼は「何だ。わが子よ」と答えた。イサクは尋ねた。「火と薪はありますが、全焼のささげ物にする羊は、どこにいるのですか。」
  • 22:8 アブラハムは答えた。「わが子よ、神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ。」こうして二人は一緒に進んで行った。
  • 22:9 神がアブラハムにお告げになった場所に彼らが着いたとき、アブラハムは、そこに祭壇を築いて薪を並べた。そして息子イサクを縛り、彼を祭壇の上の薪の上に載せた。
  • 22:10 アブラハムは手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。
  • 22:11 そのとき、【主】の使いが天から彼に呼びかけられた。「アブラハム、アブラハム。」彼は答えた。「はい、ここにおります。」
  • 22:12 御使いは言われた。「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。」
  • 22:13 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、一匹の雄羊が角を藪に引っかけていた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の息子の代わりに、全焼のささげ物として献げた。
  • 22:14 アブラハムは、その場所の名をアドナイ・イルエと呼んだ。今日も、「【主】の山には備えがある」と言われている。