「狭い門から入るように努める。」ルカ13章23~30節

コロナワクチンについては、未だ是非は厳密にはわかりません。皆がするから自分もするという人が多いようです。戦争に突進して多くの犠牲者を出した洗脳教育・集団思考から未だ日本人は解き放たれていません。接種が害であったら、どうするのでしょうか。皆が病気になるから同じだ、と自分の健康も他人事のように捉えるのでしょうか。いのちの価値、判断が安易です。うまくいかなかったら政府や医師会を非難するのでしょうが、その時は、もはや遅し、です。怒り、攻撃する人も多いのですが、自律的な人は責任転嫁や言い訳はしないものです。自己判断、自己管理は、人格と意志がなければできません。

「狭い門から入る」ことは、よほど意思を持ち、「努力」しなければできないことです。他の人と違うことをすることは難しいのです。先週の讃美で、「私を人が罵る時、世の中の目が冷たい時」とありましたが、それを恐れていたら、「狭い門から」は入れないのです。神を恐れ、世の罪を警戒して生きるならば、人が罵ったとしても迎合する行動はとれないのです。「しょうがなかった。」という弁解は神の前には通じません。残念ながら会社人間が神の国への基準に適うようには思われません。「狭い門」は神の国への門です。

「会社命令、国家の指導だからしょうがなかった。」として、多くの障碍者や弱者を犠牲にしてきたことを神は見逃さないのではないでしょう。「熱が出たら出勤停止」などは、会社を守る論理ですが、厚生上の有給扱いは当然なこととなります。でもそれをしていないようです。ワクチン接種も、仕事を続けるための義務として強制ですが、それで健康を害したら、解雇されるのでしょうか。なお、接種の弊害は即時的な害というよりは遅延性のものが予想されるので、これまでの死亡例と同様、「因果は認められない。」とされるでしょう。世界の大金持ちによる幾つかの財団が「人口減少は急務であり、高齢者・障碍者・貧困者は減らさなければならない。」と陰で活動していることは表には出ていません。

世は悪であり、人は罪びとなのです。クリスチャンがそれを感じていないとすれば、惑わされているのです。「滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行われます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。」(Ⅱテサロニケ2・10)。惑わされたことは被害者なのでしょうか。神は、この世を愛して世に迎合した人々を裁くと言われます。「神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。」(同2・11.12)。神は、安易に愚かな自己中心な人を神の国に入れるようなことはないのです。

「いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。」(マタイ13・22)。この世に迎合して生きる人は、このように神の祝福を受けて実を結ぶことはありません。「入ろうとしても、入れなくなる人が多い」(ルカ13・24)とは、『私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました。』(26)というように教会に出入りしていたとしても、正しいことを努力して行っていなかった人々です。『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行う者たち。みな出て行きなさい。』(27)と追い出されてしまうのです。

信仰を損得で考え打算する人は、「努力して狭い門から入る」ことはしていません。奉仕も献金も自分の都合の良いように適当に手を抜いている人は、神の国に迎え入れられることは期待しないほうが良いでしょう。神の国が現実でなく、信仰がお飾りであるならば、その程度が丁度良いもので、多くの人々がそのように宗教に関わっているのです。

ご自分の信仰が努力して狭い門から入るものであるか、楽をして広い門から入ろうとしたものかどうか、よく考える必要があります。「外に投げ出されることになったとき、そこで泣き叫んだり、歯ぎしりしたりするのです。」(28)となってしまったら、取り返しのつかない悲劇です。ところが、人間というものは罪人であり、自己中心なので、それが悪いとは気が付かないのです。つまり、神の国の門に入るために献身的に犠牲を払って信仰生活をしていなくても、なんら罪責感を感じないのが罪びとであり、神の定めなのです。このような聖書のことばは神の警告なのです。

ところが、「人々は、東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます。」(29)というように、必死に神を求める人々がいるのです。それでも、「主よ。救われる者は少ないのですか」(23)ということも真実です。多くの人が、快楽を求めて生きています。「努力せず、痩せて健康になる秘訣はありませんか。」と尋ねられました。「ありません。」と答えました。ギャンブルをする人が金持ちになることも成功者になることもありません。自己中心な生活を送る人が幸せになることもありません。私には「狭い門」の狭さは、茶室の「にじり口」のようなもので、刀を外して頭を下げ、膝まづいてにじらなければ入ることはできないものだと思います。

ルカ13章23~30節

  • 13:23 すると、「主よ。救われる者は少ないのですか」と言う人があった。イエスは、人々に言われた。
  • 13:24 「努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。
  • 13:25 家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってからでは、外に立って、『ご主人さま。あけてください』と言って、戸をいくらたたいても、もう主人は、『あなたがたがどこの者か、私は知らない』と答えるでしょう。
  • 13:26 すると、あなたがたは、こう言い始めるでしょう。『私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました。』
  • 13:27 だが、主人はこう言うでしょう。『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行う者たち。みな出て行きなさい。』
  • 13:28 神の国にアブラハムやイサクやヤコブや、すべての預言者たちが入っているのに、あなたがたは外に投げ出されることになったとき、そこで泣き叫んだり、歯ぎしりしたりするのです。
  • 13:29 人々は、東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます。
  • 13:30 いいですか、今しんがりの者があとで先頭になり、いま先頭の者がしんがりになるのです。」