「開眼復活。」ルカの福音書 24章31節

  • 24:31「そして、彼らの目々は開かれた。そして、彼らは彼を認識した。そして、彼は彼らから消失した。」(櫻井圀郎 直訳)

 祝!主イエス基督の復活。He’s risen!

主は、十字架上で人間の罪の贖いに聖い生命を献げられ、三日目に甦られました。春分の日の後の、満月の日の後の、最初の主日が、主の復活を記念する復活日です。

ルカの福音書二四章には復活日の模様が記録されています。主の墓に遺体はなく(一〜三節)、天使から主の復活が告げられ(四〜七節)、主の復活を信じられない弟子たち(八〜一一節)、エマオ途上の二人の弟子が描写されています(一二〜三一節)。本日の聖書箇所は最後の三一節の前半です。

Ⅰ 目の見える人間の創造

人間の「開眼」は、聖書の根本問題です。神は世界統治ために人間の創造を構想し(創世記一章二六節)、神の形に創造しました(二七節)。人間は、神の形を持ち、神の権威を帯びた、神の代官として創造されたのです。あくまでも「神の代官」としてですが、自分の能力と誤認して舞い上がる傾向があります。

創世記3章で悪魔が登場し、創造された人間を唆し、悪の道に踏み込ませる悪行の誘惑をします。悪魔は、神の言葉とその意味を知った上で誘惑します。「禁断の木の実を食べると、目々が開かれ、善悪を知る神のようになる」と(五節)。悪魔の言葉は嘘で、詐欺です。

誘惑された人間が、禁断の木の実を見ると、いかにも美味しそうに見えたのです。園の全ての木の実は美味しいものばかりとされている(二章九節)ので、優劣はないのですが、誘惑された目には歪んで見えたのです。……。これまできて、創造された人間に目が見えたことが確認できます。

Ⅱ 開眼 = 閉眼

そして、「彼ら二人の目々が開かれ、彼らは、彼らが裸であることを認識した」(三章七節a)のです。それまで「目が閉じていた」ということでしょうか?目が閉じていたのなら、木の実も見えなかったはずですから、目が開いていたはずです。目が開いていたのなら、裸であることも見えたはずなのに、木の実は見えたけれど、自分が裸であることは見えなかったというのです。

ところが、自分の目で見て取った木の実を食べたら、自分が裸であることが見えたというのです。トリッキーな話ですが、そこに聖書理解の鍵があります。

裸であることを知った人間は、腰覆いを作って身にまといます(三章七節b)。現代人なら当然ですが、最初の人間には違います。何のために腰覆いで体の一部を隠さなければならなかったのでしょうか。その意識は不思議ですが、異常です。その異常こそが、「目が見える」の意味です。勿論、悪魔の言う「目が見える」の意味です。いわば「悪魔の目」です。悪魔の目によれば、善は悪に、悪は善に見えるのです。

人間は悪魔を信じて、神に反抗し、神との約束を破ってしまいました。聖書でいう「罪」です。「罪」とは、悪魔の支配下に置かれ、悪魔の奴隷となり、悪魔の目を持つことです。悪魔の目を持った人間は、神を退け、神を恐れ、神から逃げます。神の御顔を避けて、身を隠します(三章八節)。

人間は、神によって完全な目を持って創造されたのに、悪魔の誘惑に乗って、神の目を捨てて、悪魔の目を得ました。皮肉にも、「目が開ける(開眼)」とは「目が閉じる(閉眼)」でした。

Ⅲ 真の開眼

ルカは、「彼らの目々は捕縛されて、彼を認識しえなかった」と言います(二四章一六節)。希語では、「目が捕縛された」です。医学的に失明ではなく、目が捕縛され、目の自由がなく、見えないのです。人間の目は、悪魔に捕縛されていて、見えるものが見えなくなっているのです。主がパンを取って祝福し、裂いて分け与えられた時(三〇節)、「彼は、彼らの目々は開かれた。そして、彼らは彼を認識した」(三一節a)のです。主が目を開かれたのです。

神を否定して、悪魔の奴隷となり、神の敵となった人間が、悪魔の奴隷から解放されて、神の民となる唯一の道です。基督の復活は、真の開眼を与えました。基督の復活は、人間の復活でもあります。またまた皮肉なことに、真の開眼を得て、主が見えた途端、主は見えなくなってしまいました(三一節b)。開眼、閉眼、開眼、閉眼。人間の歴史です。

 今、世界は、急速に終末に向かっているようです。神の定められた終末の時。一人一人の人間の罪の裁きのため、この世での生涯の行為の完全かつ絶対的な裁きと精算のためですが、新しい天国での生活の備えでもあります。その時が迫っていると考えると共に、その時がなお先のことであるとも考えて、日常の生活を送るのが基督者の生き方です。

 日々、自らの行いを省みて悔い改め、更に浄められた者として、先の先を見通して生きる、つまり、真に目が開かれた者として生きる、それが基督者です。

ルカ24章31節

  • 24:13 ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。
  • 24:14 そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。
  • 24:15 話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。
  • 24:16 しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。
  • 24:17 イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。
  • 24:18 クレオパというほうが答えて言った。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。」
  • 24:19 イエスが、「どんな事ですか」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。
  • 24:20 それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。
  • 24:21 しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、
  • 24:22 また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、
  • 24:23 イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。
  • 24:24 それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。」
  • 24:25 するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。
  • 24:26 キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」
  • 24:27 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。
  • 24:28 彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。
  • 24:29 それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中に入られた。
  • 24:30 彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。
  • 24:31 それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。