「自分を救おうとする人々。」ルカの福音書23章33~43節
「自分を救え。」(35.37.39)とユダヤ教の指導者たちも、兵士たちも、隣りの十字架刑の犯罪人もイエス様にどなります。確かに、人々は、自分の命を長らえさせること、自分の繁栄や名誉など、この世におけることに関心を持っています。たとえ、自分を救っても、どうせ死ぬことになるのならば、大したことはないのに、少しでも命を延ばすことに固執するのです。
永遠のいのちを求めて世界中の人が宗教に入り、過激な宗教では天国に入る為に殉教までするのに、日本人の宗教観は形骸化されたものになっており、一人で幾つもの宗教に掛け持ちする人がいます。ところが、そのような人でもお国の為、仲間の為、子孫の為には、特攻隊のように玉砕することもあるのです。残念ながら、日本人は集団倫理や洗脳に陥りやすい民族と言えます。倫理とは、「人として守り行うべき道」であり、「善悪の基準」ですが、集団倫理とは、「集団の中に入ると匿名的な存在となり、個人の責任をごまかし易い」ので、倫理感が薄れたり、奪われたりします。日本人の自主性の無さ、人格権の無さ、周囲を気にすることなどは、この集団倫理の影響だと思われます。そのようにして、個人が通常意識する死後の行き先や、天国願望が、通常の日本人の意識から離れていると思われます。それで、お墓への関心も希薄化し、骨を海に撒けば良いという人も増えています。
そのような人々にとって、この人生をできるだけ長く、楽しく、やりたいことができれば、それで良いのです。「もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」という言葉も、力ある者、選ばれた者は、自分のやりたいように好き勝手に生きることができるという願望の現われです。はっきり言えば、罪びとは自分が地獄に行くことを厭い、死後のことを考えないようにしているのです。現世志向とは、罪びとの論理です。
「ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。『尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。』」(マルコ10・17)。彼は人生を想い、真理を想い、そして誠実に暮らすことを心掛けたのですが、自分の中に満たされない思いがあることに気が付いていました。この心の空白感こそが、神を求める人の特徴です。律法を忠実に守っても得られない、神からの祝福、救い、彼はそれを求めたのです。「イエスは彼を見つめ、いつくしんで言われた。」(10・21)。「あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」(21)。自分のあり方、自分の考え方を捨てて、神に従わなければ、神の国に行くことはないのです。
「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」(新改訳2017マタイ16・25)。「自分を救え。」と言う者は、永遠のいのちを失うのです。自分のやりたいように生きるという人は、神の国には行けないのです。「人は、たとい全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのには、人は何を差し出せばよいのでしょうか。」(新改訳2017マタイ16・26)。自分勝手に生きている者が、神から報酬を受けることはないのです。「自分を救え。」という考え方のユダヤ教指導者、兵士、犯罪人はもとより、イエス様のためにいのちを失う覚悟のない者が、永遠のいのちを得ることはないのです。
ところが、もう一人の十字架刑を受ける犯罪人は、「俺たちは、自分のしたことの報いを受けている」(ルカ23・41)と、自らが十字架刑の罰を受けて当然と認めています。つまり、罪を認めているのです。私たちが、不満を持ち、自分を正当化し、人を責めるのは、自らが罪びとであることを認めていないからです。自分の罪などはたいしたことはない、と思っているのです。こういう人が、神を慕い、神の義を求め、神の国へ行くことを切望しているとは思えません。自分の義では神の国へはいけないのです。
彼は、「イエス様。あなたが御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」(42)と、地上ではうまくいかなかったけれども、天国に行きたいという希望を告白しています。大事なことは、「神の国へ行きたい」という願いです。多くの日本人は、死んだら灰になるだけと信じています。桜は見事に咲き、日本人は大好きですが、「桜は七日」とあるように短期間で散ります。戦時中、特攻隊を美化して「同期の桜、見事散りましょう。国の為」と潔い特攻の死を促したことは、否定されるべきなのに、今なお、多くの男性のロマンとなっています。それは地上の人生がはかなく、つまらないものだから死に際は潔く、という虚しい人生の構図です。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3・16)という神の愛を知らず、サタンの惑わしによって無自覚に死んでいくのが日本人なのです。あなたは、神の国を待ち望み、キリストに迎え入れられることを切望して、この地上では「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マタイ16・24)を全うしようではありませんか。
ルカ23章33~43節
- 23:33 「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。
- 23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。
- 23:35 民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」
- 23:36 兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、
- 23:37 「ユダヤ人の王なら、自分を救え」と言った。
- 23:38 「これはユダヤ人の王」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。23:39 十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言った。
- 23:40 ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
- 23:41 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
- 23:42 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
- 23:43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
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